形式を研究していくことって大事だと思う。
どういう文体が喧嘩に適しているのかを考えることって単に表面を飾る工夫をこしらえているようにしか思えないのかも知れないけれど、例えばA文体がなぜ喧嘩に適しているのか、もしくはなぜ適さないのかというのを考えることは喧嘩という枠組みでのコミュニケーションを顧みることにほかならないし、そうした考えを巡らすことは結果として喧嘩を構造的に理解することに直結すると思うんだけど。
要するに表面的な部分を考えているつもりが実は構造的な中身を考えることに繋がっていて、結果として喧嘩の中身を充実させることになるというわけさ。