水たまりに映った街路樹から目をあげると、キバタンのおじさんは消えていました。
「のどちゃんは…」
「え?」
頭の中から聞こえてきたようなその声は香織さんでした。気がつくと、私の心は男性と初めて言葉を交わす少女のようにその声に耳を澄ませていました。
「のどちゃんは水になったんじゃないかな」
「水に?溶けちゃったってことですか?」
「そんな魚がいてもおかしくない…」
そう言って香織さんが目を細めた視線の先には、生まれたての子ヤギのように足を震わせながらダンボール・ハウスから立ち上がろうとするひとりの老人がいました。向かい側にある赤い扉の教会がパンの耳を配り始めたのです。
「あの人は男ですか、女ですか?」
その時、前から歩いてきたカップルが老人の横を通り過ぎ、私たちを嘲笑して去って行きました。白いスーツを来た香織さんは私の手をギュッと握りしめ、
「大丈夫だよ」
と微笑んでくれました。白く染めた香織さんの髪が風に揺れ、白いコンタクトの向こうからあふれ出た香織さんの動物精気が私の網膜を強く打ちました。
香織さんの部屋に戻った私たちは、スーツやメイド服を脱いで部屋着に着替えたあと、それぞれスマホでいつものように『キャスフィ避難所』に入りました。