AIのべりすと実験スレッド

79名無しさん
2023-05-02 16:47:30
ID:SVw5hgI6

ところが、たった一人だけ完全に「無」になった男がいる。秀一である。そして、亜空間におけるその対応物であるところの北条秀一である。彼(ら)はただ消えたのではない。単に消えたり死んだりしたのなら、誰かの記憶に残っており、誰も記憶していない場合でも彼(ら)の生きた痕跡が何らかの仕方で世界のどこかに刻まれるはずであろう。例えば、死んだり消えたりする数秒前に踏みしめた大地の足跡……。死んだり消えたりする瞬間に吸ったわずかな空気……。そのようなものすら、存在しないのである。秀一(北条秀一)は「初めから存在していなかったし、これからも絶対に存在しない」という意味での「無」になってしまったのである。ゲイバー『女紙』の面々も、亜空間遍在幕府の無数の官僚、無数の武士たちも、誰一人として秀一(北条秀一)を覚えておらず、誰一人としてその欠落も存在可能性すら想像することができなくなったのである。
 
北条秀一の代わりに、彼のポジションに座ったのは「有栖」という謎の女であった。しかも誰一人として、彼女が「初めからそこにいた」ということを疑うものはいなかった。いまや異形の怪物「北条隆子」の言葉を人間にわかるように翻訳できるのは、有栖ただ一人である。
 
「有栖様、例の探偵めが来ておりまする」
 
亜空間遍在幕府筆頭喧嘩師の十六夜がいつの間にか、有栖の前に拡がっていた空虚な空間の真ん中に控えていた。「喧嘩師」とは、武力をもつ弁論家の総称である。その起源は古典期ギリシア(前5世紀から前4世紀頃)のアテナイを中心に活動した「ソフィスト」(ソピステース)にある。彼らは金銭を受け取って徳を教えるとされた弁論家・教育家だが、争論術に長け、問答競技(エリスティケー)で互いに競い合っていた。このうち、言論のみで決着をつけ、さらに真理や合意を目指すものは「議論師」と呼ばれ、のちの「哲学者」の原型となっていった。「喧嘩師」とは、この世界の出来事に言論のみでの決着はありえないと見切りをつけ、強弁、煽り、さらには暴力で物事を決しようとする者たちのことである。そこでは、言論と暴力は一体化しており、彼らの生き方そのものを構成しているので、両者を明確に腑分けすることはできない。
その後、中世ヨーロッパの僧院において金銭を媒介としない喧嘩師がキリスト教修道会によって大量に養成され、異教者や異端者を討伐する兵士となった。ルネサンス期には、多くの芸術家が喧嘩師となり、その影響はバロック期にも及んだ。バロック絵画の形成に大きな影響を与えたミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオは近世ヨーロッパにおける最大の喧嘩師といっていいだろう。カラヴァッジョについての記事が書かれた最初の出版物が1604年に発行されており、1601年から1604年のカラヴァッジョの生活について記されている。それによるとカラヴァッジョの暮らしは「2週間を絵画制作に費やすと、その後1か月か2か月のあいだ召使を引きつれて剣を腰に下げながら町を練り歩いた。舞踏会場や居酒屋を渡り歩いて喧嘩や口論に明け暮れる日々を送っていたため、カラヴァッジョとうまく付き合うことのできる友人はほとんどいなかった」とされている(カレル・ヴァン・マンデル『画家列伝(画家の書)』1604年)。1606年には乱闘で若者を殺して懸賞金をかけられたため、ローマを逃げ出している。1608年にマルタで、1609年にはナポリでも乱闘騒ぎを引き起こし、乱闘相手の待ち伏せにあって重傷を負わされたこともあった。
しかし、デカルト以降は言論活動と芸術活動と武力活動(暴力)は徐々に乖離していき、議論は徐々に哲学へ、そして哲学から科学へと純化していく。この近代化の過程において「喧嘩師」は「初めから存在しなかったもの」として扱われるになり、地下に潜伏して時代のうねりの中で時々間欠泉のように表に出てくるような存在にすぎなくなってしまうのである(かのノモンハン事件でも喧嘩師が暗躍したとされる)。自らも喧嘩師である有栖は、
 
「通せ」
 
と低い声で言い放った。すると十六夜が控えているそのすぐ後ろの畳に茶色いシミができたかと思うと、そこから人間の毛髪が、そして額が、眉が、目と鼻が現れた。それは紛れもなく形而上学探偵・よしおのものであった。

「おお、有栖様!」

よしおが畳から立ち上がると、

「よくぞ、おいでくださった」

と、十六夜は深々と頭を下げた。有栖は

「よい」

と言って手を振って十六夜の礼を制した。そして、
「久しいな、よしお」と言った。

「はっ」
「相変わらず、何者だかわからぬ顔をしている」
「はあ……」
「まあいい。早速、本題に入ろう」
「はっ」

十六夜はいつの間にか消えていた。有栖はよしおの目の前で正座をして、言った。
―――私は、ある男がこの世界に存在していたことを知っている。私に見えているのは、その男の記憶だけだが、この男は確かに存在した。お前はその男の存在を証明できるか? その問いに対して、よしおから返ってきた答えは極めてシンプルなものだった。

「はい」

彼は自信満々にそう言ってのけたのだ。これには有栖も驚いたようで、目を丸くした。

「ほう……では聞こう。どうやって?」

「はい、有栖様。私が思うに、その男が存在するかどうかは問題ではないのです。問題は、『有栖様がその存在を記憶していること』なのです。もし、仮に、万が一、その男の実在が確認されたとしても、有栖様がその男の存在を覚えていなければ、結局、存在しないのと同じことになるのではありませんか」

「なるほどな……。まあよくある理屈のひとつではある。だが、残念だったな」
「え!?」
「私は確かに、そいつのことを記憶しているが、それがどういう意味かまではわからない」
「なんですと」
「だから、そいつがどんな奴なのか教えてくれ」
「そいつとは、誰のことでしょうか」
「そいつとは、そいつのことだ」

「そいつと言われましても……。具体的に名前を教えていただきませんと」
「ああ、そうだな。そいつの名前は……」
「名前は?」
「名前は思い出せない」
「それでは仕方ありませんな」
 
沈黙が座を支配した。「おそらくは、北条隆子殿の記憶か、あるいは捏造された想像の産物…」とよしおは言いかけたが、それをぐっと飲み込んだ。

「ところで、有栖様」
「なんだ」
「先程、私のことをよしおと呼びましたが、なぜでしょう」
「お前が自分をそう紹介したからだろう」
「はあ、左様ですか。では有栖様は私が『北条秀一』とでも名乗ったら、そのようにしていただけるので?」
 
「こやつ……」有栖は殺意のこもった目でよしおを睨み続けていた。

名前:

メール欄:

内容:


文字色

File: