シュタインvsカジティブ

19シュタイン◆.p5v7MoS/s
2022-05-17 01:58:43
ID:TZ8dD2Z2

> ここはそもそも喧嘩に発展する前段階だからそこまで言葉の不備は気にせずにしてたって話な。

 なんて無責任な…。
コメント欄という、その動画を見た人の感想に大きく影響する場所で、
なおかつ論争という内容が重要視されるコンテンツに関することで、
言葉の不備を気にせずに批判…?
さらに多少の影響力がある有名喧嘩師のお前が…?
謝罪の一言くらいは述べておくべきでは…?
開き直っている場合じゃないんだが…?

> ん?なんか解釈云々の前に使われてるかどうかっていう、使い手側の話してなかった?お前。

 カジティブは恐らくこの部分を指しているのだろう。

>「理解していない」という批判は真面目さを含めない煽りとして運用されるケースが明らかに少ないこと。

 この文章は、使い手が真面目な意図を含めて運用しているかに限った話ではない。
ここまでの流れをしっかりと追っていれば分かるとは思うが、
真面目さは状況や客体の価値観などにも影響されて成立する。
カジティブはその性質を理解できていないのでは?という指摘だ。

> お前は解釈の蓋然性とかにおいて、その発言者にとっての合理性とかが左右される大きい根拠みたいな事言ってるんちゃうん?

 …どうやら全く伝わっていないようだ。
発言者にとって目的に合理的であるか否かも解釈には影響する。
けれど、それだけで解釈が決まるわけではない。
なぜなら客体には各々の認定した目的に沿った合理的な価値観が存在するからだ。
例えば量の格率や質の格率が生成された理由として、
ほとんどの人間がその格率を会話で合理的だと考えたことがあげられる。
そういったある種の先入観が影響し、発言者の目的とは独立した目的を会話に掲げることがある。

 先述した厳格なセレモニーの例(※16)もこれにあたる。
本人はふざけたつもりでも、周りはその発言を別の目的下で合理性の判断をする。
セレモニーの雰囲気を壊さないか、厳格な空気に相応しいのか、これで不快に思う人はいるのか。
そうして本人の合理性とは別の合理性が査定され、
最終的に重大性が含まれる状況かどうかが解釈される。

 これも意図のみが解釈に関係するという誤解が生んだ悲劇だろう。
発言とは発言者の真意にのみ依存するものではない。
これはテクスト論(※17)という理論に当てはまる。
是非とも履修してきてくれ。

【注釈】

(※16)以下引用
『例えば、厳格なセレモニーで司会者を馬鹿呼ばわりした人がいたとする。
その人が「おふざけのつもりだった」と弁明したところで、おふざけで済まされる状況ではない。
本人がおふざけだったとしても、それを真だと周りが受け入れたとしても、だ。
これは意図と状況が独立したものであることを示す。』

(※17)以下引用
『文章を作者の意図に支配されたものと見るのではなく、あくまでも文章それ自体として読むべきだとする思想のことをいう。
文章はいったん書かれれば、作者自身との連関を断たれた自律的なもの(テクスト)となり、多様な読まれ方を許すようになる。
これは悪いことではなく積極的な意味をもつのであり、文章を読む際に、常にそれを支配しているであろう「作者の意図」を想定し、それを言い当てようとするほうが不自然であるとする。
およそこうした考え方を、フランスの批評家ロラン・バルトは「作者の死」と呼んだ(『作者の死』〈1968年〉)。
ポストモダンの哲学者デリダもほぼ同時期に、自分自身のなかに立ち現れる純粋な「いいたいこと」がまずあって、それが文章として表現される、という考え方を否定している。「いいたいこと」は純粋にそれだけとしてあるのではなく、言葉と不可分に結びついて成り立つと考えるからである。
こうしたテクスト論は、フランスのポストモダン思想全体の流れから見ると、文章というものに絶対の真理(著者が真にいいたかったこと)を求める姿勢への批判であり、「形而上学批判」の1つと見ることができる。』

名前:

メール欄:

内容:


文字色

File: