ひまつぶし

544オビディ◆/mLTvWifHs
2022-08-31 22:36:06
ID:sZF768y2

横入りで申し訳ないけど、暇なので私も意見を述べさせてもらうね。

まず定義とは、「義を定める」と書く。

義というのは、羊を生贄に捧げて筋を通したという成り立ちから、正しい道とか道理にかなった事という意味の漢字。
そして定という漢字は、宀に正という音を組み合わせた形声文字で、物を整えて落ち着かせるという意味がある。

つまり、定義というのは、正しい道や道理にかなったことを整えて落ち着かせるという意味になる。

では、この正しいとは何か?

正というのは、一に止を合わせた文字で、もっと言うと、この一は囗の省略で、この囗は城郭都市を意味する象形文字。国構えと同じ意味を持っている。
そして止は足を意味する象形文字で、合わせると城郭都市に向かって進む、言い換えれば攻める事を意味する文字である。

それを補うように、征という字は正に行人偏をつけてさらに進むことを強調している。

つまり、正しいというのは、「足が城郭都市に向かってまっすぐ進む」という意味から転じて、偽りや間違いがないという意味を持つようになったとされている。

要するに、言いたいのは、この正しさというのは、自分たちの中にあるということだ。
ここで言う自分たちというのは、攻めている側のことである。

畢竟するに、定義というのは、"自分(または相手)が"、正しいと思う道理を定めることである。
その根拠として辞書が挙げられるのであって、辞書がその正しさを証明するものではない。
なぜならその正しさというのは、自分や相手の中に存在するものだからだ。
その証拠に、定義された言葉は、少なくともその議論内において正しいこととされる(言葉の是非の議論は置いといて)し、辞書に書かれていない意味を持たせて定義することもできる。
もし、辞書が正しいことを証明するものであれば、そもそもこの言葉は正しくないことになる。
言い換えると、辞書と異なる言葉を使うことが許されなくなってしまうということである。

辞書が正しいことを証明するものでないなら、辞書とは何なのか?

めるだうが挙げたもののように、辞書というのは、使われていた言葉をまとめ、解説したものである。
当然そこにはどこかで定義されたものも載っている。

そして私たちはその辞書をもとにして、言葉を再定義する。
だから、辞書に書かれているものが定義だと感じる人が一定数いるんだと思うよ。

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