>>913
http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2007/0319/123538.htm?o=0&p=0
この掲示板サイトのスレが一番参考になったんだけど、”尊敬”っていう言葉のニュアンスがそれぞれで違ったりしてるね。
だからかもしれないけど、
>今の自分を作ってくれたことに本当に感謝できれば、強制されなくても親を敬うことになるよ。
というのが理解できなかった。というのも、俺の思う”尊敬”というのは、自分が見習うべき指標だと見定めることだっていうニュアンスが強かった。でも辞書で調べてみたら、相手に礼儀を払うとか、礼をつくすだなんて意味もあった。
見習うべきか否かで言えば、>>912で言った通りなんだけど、礼儀をはらうか、相手を尊重するか、といった相手を大切にして自分以上に扱うという意味では否定しない。
>>918
私の言ってる「敬う」は、辞書の意味と同じかどうか分からないけど、自発的に相手を自分の上に置こうとするような気持ち、という感覚になる。
「見習うべき指標」と考えたら私の意見もちょっと変わる。親だって普通の人間だから、長所もあれば短所もある。別に短所を見習えとは言わない。長所を見習い短所は見習わないというのは、相手が親だろうと他人だろうと年上だろうと年下だろうと区別はないと思う。
でも、「親を敬え」という時の「敬え」は、そういう意味じゃないと思うよ。たとえば親の能力とか人格とか様々なものをひっくるめて数値化できると仮定すれば、偏差値40の親は大して敬うに値しないけど偏差値60の親は敬うべき、という話になるのか。見習うという意味ではそうなると思う。でも、親を敬えという時の敬うは、親偏差値の高い低いの問題じゃない。敬うべき理由は能力などの高低ではなく「親だから」なんだよ。
礼儀を払う、礼を尽くすというのは、ちょっと表面的な感じがする。たとえば学校の先生や職場の上司には礼儀を払わないといけないけど、それって内心でどう思ってるのかと関係ないじゃん。内心「なんだこの野郎」と思いつつ表面では丁寧な態度をとってきたことは誰でもあると思う。それは「社会的に目上だから」という理由に過ぎなくて、親に対する敬い方とは違う。社会的地位の高い人には表面的には丁寧に接しても、内心軽蔑してたり恨んでたりする例はいくらでもあるだろう。
親を「敬う」のは、心の中で親を自分よりも上位の存在として大切にしつつ、そのうえで礼を尽くすことだと思う。そういう意味で、なぜ親を敬うべきかというと、親は自分の存在の源だからだ。自分を大切に思えば、そんな自分を作ってくれた親に感謝し敬うことになる。だから、親を敬うというのは、親を大切にするとともに自分を大切にすることでもある。
親は年長者でもあるけど、ただの年長者じゃない。だから、ナチュラルの示したサイトの質問とは別の問題だと思う。
>>913で一部には虐待親など敬えない不幸な場合もあると書いたけど、それは自分を大切に思うことと親を大切に思うことが決定的に対立してて両立できないからだ。自分の幸せのためには親を排除しないといけない、という不正常な極限状態では、さすがに親を敬えないだろうからね。
南雲の道徳的な口ぶりが納得行かないな
間接的にお前不幸だからそんな事思えるんだよwってのをめちゃくちゃオブラートに包んでるだけじゃん
なんかすっごいその親に対しての話だけは
読んでてイライラするからメタクソ煽りながら反論したくて仕方ないのだけど
この20何年間で何度か親に殺されかけて
家に2〜3回は警察来てるし児相だかとも何度か面談みたいなのしたのって
南雲の言う虐待のソレっぽいのかと思えて
反論消す時間があるって言う
13くらいの時にもうお前と一緒に生活したくねえって家追い出されて
祖母の家に送られた時に児相に
俺も親と暮らしたくないから施設が良いって言ったのに家に帰った時は少し絶望したの思い出した
>>919
>親は自分の存在の源だからだ。
要するに、自分の成長を担う何らかの世話をしてくれたからってことだよね。だったら”親だから”だなんていうのは違うんじゃないかな。親でなくたって、先輩とか親戚とか、何かしら自分によくしてくれる人を尊敬するのと同じだと思う。
一番理解できないのは”産んでくれたから”っていうところなんだ。別に不幸に育ったわけじゃないから、恨む理由なんてないけど、それでもこっちは勝手に産まされた立場だ。確かに、今幸せな自分があるのは産んでくれたからだけど、逆に言えば、産まれなければ不幸だとか幸せだとかいう概念もない”無”の状態なんだから、そこをとって幸せだとするのはおかしいと思う。
自分が産まれたその時以降に尊敬とか感謝とか生じるのであって、産んでくれたことを感謝するというのはなんとも理解し難い。
楽しく雑談したいのにいつも暗くて真面目な話になってしまう.....。
なんか楽しい話しようぜ...話題ないけどなw.....。
>>923
もちろん、今の自分を形作ったのは「親だけ」じゃないから、先輩やら親戚も同じような意味で尊敬すべきだと思う。でも普通は、親とそのほか先輩や親戚とは、その度合いが全く違う。
>一番理解できないのは”産んでくれたから”っていうところなんだ。
>それでもこっちは勝手に産まされた立場だ。
やっぱり究極はそこに行き着くだろうね。こっちは産んでくれなんて頼んでいない。特別不幸な人生じゃなくても、特別幸福に生きてもいない。むしろ人生、辛いことのほうが多い。プラスとマイナスと比べてマイナスのほうが多ければ、生まれなかった「ゼロ」のほうが良かったかもしれない。そう考えても不思議じゃない。
結局それは、生きること自体の価値の問題になってくる。人生の根本的な問題になりすぎて、私もうまく説明できないんだよね。というか、生きる価値そのものは、理屈で説明することは難しいと思う。
私は今のナチュラルと同じ年頃に漱石の『行人』を読んだけど、すごく聡明な主人公の一郎ですら、「解」を見出しながら自分自身はその「解」に到達できなかった。むしろ一郎は、物凄く聡明な知恵がかえって邪魔をしているように見えた。
生まれてきたこと自体、生きていること自体に感謝できるようになれば、産んだ親を「産んだこと」のみで敬えると思う。でもそれは一種の境地であって理屈ではないんだよ。納得できないかもしれないが、こればかりは知識で識るのではなく、体感する以外にない。それが容易にできないから、人は宗教なんかに頼るようになる。
でも私は、「生きていて何の価値があるのか」という問いに対しては、「生きていることそれ自体を超える価値なんて無いし必要もない」と答える。これはいろんな人に対して答えてきた。私なりに到着した「解」だからね。
結局一番重要なところはまともに説明できないじゃん!と思うかもしれないけど、人生の大問題を上手に簡潔に説明できるほどの能力は持っていないし、不可能かもしれない。どこかにそれを出来る人がいたら、その人の説明さえ読めば誰も人生に疑問なんて感じなくなるはずだけど、そんな説明見たことないからね。むしろどっかの怪しい教祖サマくらいしか自信満々に説いてないように思える。
でもここにいる我々全員が「産まれてきた」という現実を持っているし、今現在「生きている」という現実もある。それなら、そのことを肯定できるようになるのは、究極的な目標であることには違いない。産まれてきたことを歓ぶことが究極的な目標であるなら、産んだ親への感謝もそれと一体になる目標といえる。「生きてることに感謝しろ」と言われても「なんで感謝すべきなの?俺そんな幸せじゃないよ」という話になって急にはできないだろう。それでも、産まれて生きているという現実を持ってる我々は、それを歓ぶこと以外に"目指すべきゴール"は無いし、それは同時に親に感謝するということにもなる、ということかな。
真正面からの説明じゃないことは分かってるけど、私が言葉で説明できる限界はそのあたりだと思う。他人を納得させる力はないけど、自分では納得してる。まあどれほど実践できているかと言えば怪しいけどね。
仲良く雑談論争スレでも立ててくれ^^
お互いに怒声やら煽らなければギリギリセーフだろw
電車内で口元を押さえながら…携帯を使用して小声で話してる乗客を
うるせーとばかりに睨みつける馬鹿が居るが
よっぽど2人組以上で乗車しながら大声で話している乗客の方がうるさくて迷惑なんだよなw
ま〜、元々は何を禁じ手にしているのか?という話だな^^
>>931
議論はもともと好き。
議論板から共産党支持者さんがいなくなった後、「喧嘩民のほうが論力高いんじゃないか」と思って喧嘩板に行ってみた。
半年あまりくらいは喧嘩が面白かったけどその後だんだん飽きてきて、今は議論する気力もあんまりない。
あの時代は議論が楽しかった。私も共産党さんの鉄壁のような理論をどうにか崩せないかと思って挑戦してたなぁ。
>>925
亀レスだけど面白そうだから首突っ込むわ
>やっぱり究極はそこに行き着くだろうね。
>こっちは産んでくれなんて頼んでいない。
>特別不幸な人生じゃなくても、特別幸福に生きてもいない。
>むしろ人生、辛いことのほうが多い。
>プラスとマイナスと比べてマイナスのほうが多ければ、
>生まれなかった「ゼロ」のほうが良かったかもしれない。
>そう考えても不思議じゃない。
>結局それは、生きること自体の価値の問題になってくる。
>人生の根本的な問題になりすぎて、
>私もうまく説明できないんだよね。
>というか、生きる価値そのものは、
>理屈で説明することは難しいと思う。
これって俗っぽく言うと「考え過ぎ」ってとこに
原因があるんじゃないかな。
もうちょっと具体的に言うと理性が本能を抑えつけてるってこと。
プラスマイナス云々の話聞いてて思ったけど、
確かに理性は幸福を最重要とすることがある。
でも、(生存)本能は生存を最重要とする。
理性でマイナスになったら損切り(自殺)するのも選択肢と考えると、
本能はそれに対して怯えるんだと思う。
「マイナスになったら理性に殺されるかもしれない」と。
結果的に幸福を求める程、幸福が遠のくジレンマっていう。
やはり人間に本能が備わっている以上、
幸福に生きるためには本能を尊重せざるを得ない。
じゃあどうすればいいかって言うと、
抑えつけられてる本能を解放すればいいんじゃないかな。
具体的に言うと闘争本能を刺激する趣味を持つ。
ボクシングやモータースポーツを観戦したり、芸術鑑賞をしたり、高価なものを着飾ったり。
そうすることで本能が研ぎ澄まされ、
ただ生きているということだけで素晴らしいと思うようになり、
その原因である親にも感謝するようになる。
俺はそう思うよ。
>>938
たしかに本能は生存を求めているね。そして、プラスマイナス、生きてる価値とかなんとか考えて悩むのは理性のほう。三日月くんの言うように、両者の葛藤が起きてしまうかもしれない。
その葛藤があるうちは、なんだかんだ言っても死なないと思う。理性で自己否定すればするほど、本能がその結末を強く恐れるから、葛藤が強くなって苦しさは増すけれどもブレーキはなくならない。本能のブレーキが作用している限り、自己否定しながらも生きていくのだと思う。
ところがある時点で、恐れる本能が働かなくなるんだよね。私も経験あるけど、怖くなくなってしまう。本当にやってしまう人ってこんな状態なんだろうな。私の場合は寸止めできたからよかったけど。
そして今はむしろ逆なんだよ。理性が本能を受け入れてる。私はよく「生きることに価値なんか要らない、生きること自体が価値だ」って言うけど、それは生きようとする本能そのものに理性が価値を見出したからかな。
私が考えてるのは、人間って、誰かの役に立っていると自分の価値を認めることができる。でもそれって一種の矛盾だと思う。ある人の役に立っていても、その相手が「価値のない人」であれば、価値のない人の役に立つのが価値のあることなのか。価値のない人の役に立ってもそれは自分の価値にならないと思う。では、その相手の価値の有無はどうやって決まるのか。その人が社会の役に立ってるかどうか?じゃあその「社会」を構成する一人一人の価値はどこからくるのか?…ってね。
そうやって、人間の「価値の根源」を辿っていくと、結局どこからも価値は生まれなくなってしまう。だからこそ逆に考える。誰かの役に立つことは、自分の幸せを生み出すけど、役に立たないからと言って自己否定する理由にはならないんだと。
三日月くんは「本能を解放する、研ぎ澄ます」と言ったけど、私はそれを「感性」と表現したい。人は芸術的なものを見ると感動する。その感動に小賢しい理屈は無いんだよね。音楽を聴いて心が動くのも、大自然を見て美しいと思うのも、それは感性であって理性ではない。雄大な大自然を見れば感動するけど、そんな自然なんて、物理学的に考察すれば様々な現象の結果であってそこに何か価値があるわけじゃない。でも人は感動する。
私は、人間にとって最大の芸術は人生だと思う。レオナルド・ダ・ヴィンチも、人生のすべてを一枚の絵に表現することは不可能だよ。自分が生きていることそのものが、現在進行形で芸術を創り出している。文学や映画などでは人の醜さを描くことも芸術たり得るように、自分の醜い部分もまた芸術。そして自分の人生の中には喜怒哀楽が詰まっている。どんな芸術家にも描くことのできない芸術で、要は、それを見出す「感性」を持つことだと思う。それが、三日月くんの言う「本能を研ぎ澄ます」に当たるんじゃないかな。
>>939
なんかブロック率が上がると垢停止になるとかなんとか聞いてる。
喧嘩したい相手と喧嘩するのは別にいいと思うけど、ネトオチさせた相手にブロックされていったら垢停止になるかもよ。
ちなみに私は長文癖があるからTwitterで喧嘩なんて無理だなー。
>>940
本能って言葉は歴史的にさまざまな意味で使われてきたそうだけど、
自分は本能と感性を分けて考えてたな。
だから「本能を研ぎ澄ます」=「感性を研ぎ澄ます」ではなくて
本能も感性も研ぎ澄ます必要があると思う。
感性は人間が文化的に生きる上で必要不可欠なものだけど
「文化」って言葉は人間とその他の動物を
分かつものとして定義されることが多い。
(動物にも文化の存在が認められるという考え方もあるが)
で、俺はさっき「本能」って言葉を「人間が獣だったころからある脳」
という意味で使ったんだ。
獣からヒトへの進化では特に理性の発達が注目されるけど、
それだけじゃない。感性も大いに発達している。
そして本能、理性、感性が三位一体で人間の脳を形作ってる。
こういう風に考えていて、さっき「本能を研ぎ澄ます」の例として
挙げた芸術鑑賞はハイカルチャーを嗜むってイメージで使ったんだ。
なぜかというと俺は人間の本能が権威主義的な世界観を
持っているんじゃないかと思っていて、
高貴なものに触れることそれ自体が繁栄の象徴と
感じるんじゃないかと思ってる。
権威主義といえば「価値の根源」についてだけど、
確かに理性的に突き詰めると「価値ってなんだ?」ってところに行き着いてしまう。
でも権威主義的な本能はヒエラルキーの上部であるというだけで価値を認めると思う。
こういう点でも本能と上手く付き合うことが幸せにつながると思う。
もちろん「他者の役に立てて嬉しい」という気持ちも生きる価値の一つになるけどね。
http://jeison.biz/casphy/bbs/read.php?cate=debate&mode=thread&no=7004&res=n50
ところで在日米軍撤退ってあり得ると思う?
今ちょっと熱と頭痛で思考力働かないんだけど
長期的にはアメリカが軍事費の負担に耐えきれず孤立主義化していくことで十分あり得ると思うが、短期的視点では中露を増長させるとアメリカの国益に反するので撤退はないだろう。
ただ北朝鮮情勢によって在韓米軍の撤退は在日米軍の撤退よりも現実味がある。
「宇宙戦艦ヤマト」を海上自衛隊が歌うと重みがあるなあ
https://www.youtube.com/watch?v=v9GPQP5Treg
♪必ずここへ帰ってくると 手を振る人に笑顔で答え♪
旧日本海軍で最初から「帰ってこない」任務で出撃した戦艦大和
でも「必ず帰ってくること」が任務の宇宙戦艦ヤマト
海上自衛隊が「ヤマト」を歌うと、戦艦大和の悲しさと、今求めるべき希望の違いが際だって感慨深い
「数えたくないなぁ…いや数えてはならんのだ。人の命は数じゃない。」 沖田十三
2199で一番心に響いた好きな台詞だった。
祖父と一緒に見ていたことがあったが,兵器ものは男のロマンなのだろうと感じられた。
銀河英雄等はBGMが全てクラシック音楽
戦車が動いて流れるのはベートーベンの『運命』だったりワーグナーの『ワルキューレの騎行』だったり
曲名や作曲した人物が分からなくても,ちょっと耳にした時にこの曲聞いた事あると影響をもたらすのが銀英伝であるから凄いと言える。
クラシックにのせて深いこと言うから更に見応えがあるのう
2199より見慣れた昔の古代進の顔が好き
新しいのはいろいろ理屈に合わない点を修正したり次作への伏線とか完成度は上がってるけど…
昔のヤマトは無印→さらば&2→新たなる旅立ち→永遠に→3→完結編
とあるけど2が一番好きかな
敵だって白色彗星が一番怖い感じがするし
銀英伝は見てないのでわからない
完結編は同年代の幻魔大戦とクラッシャージョウを借りて見るのにスルーしておったな。
銀英伝は…えっ、嘘だろ?っという展開がこの作の目白押しかの
考察探るに当たって一度視聴しても分からないことがあるからのう。2,3回程度見直すと大体内容に追い込めるんだが
ストーリーを追う→背景、衣装、表情などを追う→伏線や、アクションシーンなど気に入ったシーンを何回か繰り返し観る
と順を辿った方向で洞察して見ていくようにすると作品の見所が掴めてくる。見返す大切さと同時に見方を把握してきたな
そう言えば途端に木村拓哉の宇宙戦艦ヤマト(実写)が記憶に過ったが
木村拓哉verが好きという人は全く見当たりなかったような,あまり良い方ではなかったのだろうか。
また久々に南雲と話がしたくなったんだ。
世界史の話とか、政治の話とか、ちょっとした雑談をしたりとかね。
べほのぼのとした日常