陛下の譲位に関する有識者会議にて一部の識者を名乗る逆賊が陛下の意向に反し譲位を反対するような戯言を吐いた
かの玉音放送を耳にして未ださようなことを宣う自称保守がいることにはあきれるばかりである
陛下に意向に反するだけではなく、大多数の皇民の世論にも反するものであり、国家並びに皇室の権威を傷つける恐れがあるものである
よってかような有識者会議は直ちに解散すべきである
北条氏は逆賊であろう
源氏の直系を絶やしたのは北条氏の謀略である可能性が高いし、その後の承久の乱はまさに朝廷vs北条氏の戦い
一方で室町幕府は源氏の名門足利の血統の幕府だから北条とは雲泥の差
尊氏はしばしば逆賊と言われることがあるが、後醍醐天皇の死後天龍寺を創建するなど忠臣ぶりを見せている
それよりも義満のほうが問題だ
長らく日本は天皇が知らす国であったのにあろうことか明の冊封体制下に入ってしまった
これはつまり日本が明の皇帝の家来になることであるから尊氏と義満どちらが逆賊かは明らかである
源氏も平氏も天皇の子孫だから皇族で足利氏も源氏と言うのであれば
北条氏だって平氏じゃん
承久の乱があると言うけどモンゴルと徹底抗戦の道を選んだ北条時宗の功績はどうなるの
北条時宗が幕府内で強い権力を握っていたから意志決定できたわけで
承久の乱でもしも後鳥羽上皇が勝っていたら
北条得宗家が御家人を統率できなかったので日本はとてもモンゴルの侵攻を食い止めることができなかった
それでも北条氏は逆賊ですか?
>25
承久の乱においてまだ朝廷および天皇家の権威は残っておりまだ北条家の力が弱い西国の武士が集まった。此のときは東国の武士も後鳥羽上皇の軍になろうとしたものもいたが北条政子の呼び掛けで北条家についた。
そして北条が勝ち西国にも力を及ぼし朝廷の権威を失墜させた。
だから蒙古襲来のときも穏便にいこうという案しかでなかった。
もし後鳥羽上皇が勝っていたら権威は残っており東国の武士も仲間になり(朝敵になるのを恐れて)北条は滅亡しただろう。
権威を誇っていればそれなりの決断が出来ていたのではないか?
承久の乱の時、北条政子の呼びかけで御家人が結束したのは何故か。その時も、朝廷に弓を引けば朝敵の汚名を着ると尻込みする者が多かった。しかも北条氏は鎌倉幕府の家臣でしかない。ただ単に最有力家臣にすぎなかった。
だから北条政子は、頼朝の妻という立場と、亡き頼朝の権威を利用する必要があった。
そもそも武士を天皇や上皇が統率できていたら、鎌倉幕府は生まれていない。天皇や院を中心とする朝廷が、保元の乱以来、武士の力を利用しながら重んじないという不満が武士にあったから、平氏なり源氏なりに武士が従うようになった。平氏は武士の利益を代表することが出来なかった。頼朝が鎌倉に幕府を置いたのは、東国が源氏の地盤だからという理由もあるが、朝廷の秩序とは異なる武士の組織を作らなければ武士を統率できないことを平氏の失敗から学び、朝廷と距離を置きたかったからでもある。
源義経はそういう頼朝の構想を理解できず、源氏が平氏に取って代わる程度の政治観しか持てなかったので、いかに戦上手でも武士の代表たりえなかった。
承久の乱の時、朝廷にはいまだ権威があったが、「逆らえば朝敵」という最強カードを使ってさえ北条氏に勝つことはできなかった。すでに朝廷の権威で武士が団結することは不可能だった証明である。承久の乱の結果、朝廷の力が北条氏の手で尚更失墜させられたことは事実でも、それ以前に朝廷が武士を統率できなかったのがそもそもの敗因だ。
そんな朝廷を中心に元寇を乗り切ることができたのか。元寇は国難だから御家人も非御家人も朝廷も、襲ってきた敵に対しては利害を超えて協力したものの、そこに北条時宗というリーダーシップを取る人物なしではどれほど弱体であったか分からない。朝廷に武士を統率する力がなかったからこそ、承久の乱で敗れ、また、北条氏が天下を失ったあとも後醍醐天皇が武士を統率できなかった。
足利尊氏は本来、後醍醐天皇と争うことを望んでいなかった。北条氏を倒す時、後醍醐天皇が中心になり得ても、そのあと武士を統率できなくなって、逆らいたくない尊氏が反後醍醐天皇のリーダーにならざるをえなかったことも、朝廷が武士をまとめることが出来なかったからに他ならない。
北条氏は足利氏が源氏の名門だったような家格はないが、少なくとも当時において北条氏は平氏であると認識されていた。
ま平家なんて以仁王に弓を引いた逆賊平家は皇族の位を落とされているから神の血筋じゃないんだね。
>>29
いずれにせよ朝廷が動員できた武士が弱体だったことに変わりはない
>>30
平氏が以仁王に弓を引いたのは以仁王が平氏討伐の令旨を出して
弓を引かなければ滅ぼされる立場になったからだ
尊氏だって後醍醐天皇に討伐の綸旨を出されたらいったん引きこもったけど結局後醍醐天皇に弓を引いた
朝廷はもともと武士が力をつけることを嫌ったから平氏が強大化すれば源氏をぶつけて
頼朝が強大化すれば義経をぶつけて常に共倒れを狙ってきた
そのあと朝廷は幕府にぶつけるべき相手がいなくなったから源氏の嫡流が途絶えた好機に後鳥羽上皇自ら動いたけど失敗
それだけのこと
一応断っておくけど私は自称中道右派の人間で、天皇や天皇家のことを悪く言うつもりは全く無い。
だけども私は大日本帝国憲法の天皇神聖化には賛成できない。
なぜかというと、世界に例を見ないほど長い日本の天皇の歴史の中で、大日本帝国憲法はほんの数十年しか続かなかったごく一時的なものだった。このほんの数十年の価値基準で、長大な天皇の歴史を見てほしくない。
もうひとつは、天皇家が経験した歴史上最大の存続危機が、1945年の敗戦だった。アメリカ人は天皇なんかなんとも思わないからね。そして、天皇が神聖なる絶対権力者だったから、下手をすると戦争の最高責任を問われかねない立場になった。「A級戦犯」たちが、全ての泥をかぶってくれなかったら天皇が危険だったよ。あのとき、国の中枢にいたどれほどの人が、昭和天皇の名誉を守ることに必死だったことか。
天皇が絶対者だから、天皇が存亡の危機に立たされた。この危機を繰り返してはならないと思う。
実は昔のほうが天皇を神様と思っていたよ。
あと天皇は切り捨てとかイスラムのよふな絶対神ではない。
天皇は生き神様だからね。マッカーサー元帥は天皇陛下との会見で天皇陛下の人柄を尊ぶったから戦争犯罪人にしなかったという説がつよい。
因みに私は政治右派で民本主義(天皇主権の民主主義)、経済左派です。
昔、天皇が神様というのは八百万の神のトップみたいな感じだよね。帝国憲法はドイツ憲法がモデルだから唯一絶対の色が出てるんだよなあ。
マッカーサーが昭和天皇のお人柄に感心したのは事実らしいね。会見の時、昭和天皇が「朕はどうなってもいいから国民を守ってほしい」みたいなことを言ったので心を打たれたとか。
その一方で、「天皇陛下万歳」で神風攻撃をしていたこと、無残な敗戦をしても天皇の権威に傷がつかないこと、天皇の戦闘中止命令に各方面の軍隊が(一部を除いて)従順で戦闘をやめたことなどから、「天皇を罪に問えば日本人はアメリカを恨み、五十万の軍隊を半永久に駐留させなければ統治できない。それよりも天皇の影響力を日本の統治に利用すべき」という合理的な報告を本国に送ってもいる。
おそらくマッカーサーとしては両方とも本音だったんじゃないかと思う。
うん。最近はマッカーサー証言を否定する馬鹿者も増えてるけどね。
あときみは軍歌とかのコメント欄に書き込まない方がいいよ。中道は葛呼ばわりされるから
ありがとう。
でも、私は私なりの信念を持っているからそれをクズと言う人がいても勝手に言っとけって思うだけ。私は少し右寄り思想だけど感情的な右翼は嫌い。