新宿系理性批判

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1丸山
2017-08-12 00:14:37
ID:gF0J0.2Y

「議論」の目的が「真実」に到達することだとしたら、
「煽り」の目的はひとを動かすこと、つまり「扇動(煽動)」にある。


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2丸山
2017-08-12 00:17:19
ID:gF0J0.2Y

「煽つ(あおつ)」https://dictionary.goo.ne.jp/jn/1740/meaning/m0u/

1 あおいで風を起こす。
「大うちはで煽ちのけるがごとくで」〈狂言記・粟田口〉

2 燃える気持ちをあおりたてる。そそのかす。
「きやつは定業 (ぢゃうごふ) が煽つ」〈虎明狂・鼻取相撲〉

3 風のために火や薄い物が揺れ動く。ばたばたする。
「屏風をたたむ如くにて、二、三度四、五度煽つと見えしが」〈浄・源頼家源実朝鎌倉三代記〉

3丸山
2017-08-12 00:22:59
ID:gF0J0.2Y

団扇で扇ぐがごとく煽る能動的煽動と風にはためくがごとく煽つ受動的扇動。
 
「笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。」(マタイの福音書11章17節)
 

4丸山
2017-08-12 00:32:52
ID:gF0J0.2Y

Vikipediaには次のように解説されている。

「煽り(あおり)とは、2ちゃんねるなどの電子掲示板におけるレスの一種であり、相手に不快な感情を抱かせる為に使用される種類の言葉の総称を言う。相手を不快にさせる事が基本的な目的であるが、その背景には感情的な争い、相手をスレから追放する、自己の主張を通す、味方の仇を討つなど、様々な理由が存在する。」

主に、能動的な煽りについて述べられている。
我々が通常理解している「煽り」とはこのようなものだ。
すると、「煽り」は主体的・能動的な働きかけにより、ひとをある状態にする(出て行くという行動をさせる、自分の主張を受け入れさせる、相手の心をある不快な状態にする)こととして理解される。

5丸山
2017-08-12 00:40:12
ID:gF0J0.2Y

しかし、「煽り」にはもっと存在論的な側面があるのではないだろうか?
 
事態が真に動くとき、そこには「受動的能動性」とでも言うべきものが働いていると言うべきではないか。

アドルフ・ヒトラーの天才的な煽りだけで、果たしてあれだけの国民が動くものだろうか?

6丸山
2017-08-12 00:54:39
ID:gF0J0.2Y

煽文分解学。

確かに、これによって煽文(せんぶん→煽り文)の論理的構造が明らかになり、「事実」とただの「意見」が区別できる。

だが、これは「煽り」を事実判断に還元するという思想であり、「煽り」を一種の「議論」とみなすものだ。

これでは、「ひとが何故『煽動』されるのか」ということが「真実により説得されるから」ということ「だけ」になってしまう。

もちろん、煽りのそのような面(事実判断としての煽り)は否定しない。

だが、ここではさらに突っ込んで問いたい。
「事実」だけでひとは動くのか。
そもそも、何故、ひとは「事実」で動くのか、と。

7丸山
2017-08-12 01:05:26
ID:gF0J0.2Y

Vikipediaは、一方で上のような「煽り」の「議論」との同一視を行いながら、一方では次のように述べている。

客観勝敗論

「一般的に煽り合いとは明確な勝利基準・敗北基準が存在せず、相手が敗北の宣言をしない限りは決着がつかない戦いである。 転じて、これを『勝敗は自分や相手ではなく、常に第三者が決める』という解釈を武器に煽り合いに臨む方法が、客観勝敗論である。」

ここで述べられている「客観」とは、「客観的事実」のことではない。客観的な事実そのものが基準としてちゃんと機能しうるのであれば、「明確な勝利基準・敗北基準が存在せず、相手が敗北の宣言をしない限りは決着がつかない」などということは、そもそも生じないからである。

ここで述べられている「客観」とは、「第三者」のことであり、社会学者・大澤真幸風にいえば、「第三者の審級」のことである。




8丸山
2017-08-12 01:10:57
ID:gF0J0.2Y

第三者の審級

「そこに帰属していると想定された(つまりそれが承認していると認知された)ことがらについては、任意の他者が学習すべきことについての(価値的な)規範が成り立っているかのように現れる、特権的な他者のことである。」(『虚構の時代の果て』,大澤真幸,ちくま新書,1996,p227)
   

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