【無精床(ぶしょうどこ)】
落語の演目の一つ。
親方も小僧も無精きわまりない無茶苦茶な床屋に、偶然入ってしまった男の災難ぶりを描いた滑稽噺。
あらすじ
行きつけの床屋が混んでいるので、代わりに入った床屋がたいへんな店。
掃除はしていないし蜘蛛の巣だらけ、ハサミも剃刀も錆だらけ。
肝心の主人たるや無愛想でぐうたらそのもの……
顔に乗せた手拭いが熱すぎる。
「熱いよ!親方!」
「こっちも熱くって持ってられねえから、お前の顔に載せたんだ」
次は頭を濡らしてもらおうと頼むと、
「水桶にボウフラがわいているから」
「おい親方、ボウフラなんか湧いてるのかよ!」
「これぁ飼ってんだよ。水桶をこう叩くだろ。そら、沈んだ。かわいいだろ。その間に頭ぬらしとけ」
非衛生極まりない。
頭を剃る段になると、小僧に剃らせようとする。
「おい大丈夫かい?」
「何言ってやがんでえ。うちの小僧にも稽古させねえといけねえ」
「俺は稽古台か!」
しぶしぶ剃刀を当てさせると、案の定痛くてたまらない。
聞くと下駄を削った剃刀で剃っているという。呆れて音を上げた客、剃刀も親方に代わってもらうが、親方は客の頭がデコボコで剃りにくいとこぼす始末。
しかも側に控えて見学する小僧にいちいち指図する。
「おい、俺の手元よく見ておけ……何見てんだ? 何ぃ、表に角兵衛獅子が通っている!? そんなもの見てんじゃねえよ!」
と小言の連続。
そのうち親方、手を滑らせる。
「あ痛ッ! ああっ、血が出ちまったじゃあねえか。親方! どうしてくれるんだ!」
「なあに、縫うほどのものじゃねえ」
こういう長文系の大喜利って何が面白いんや
正直なとこ文章あんま好きじゃないから、読むだけで苦になる
お前らはこういうのが好きなんか? ユーモアよりギャグセン系の方が楽しくね
「50ら蛇人間」「50ドル人間」いただきました。
「くくれカズ」は「おい、カズ(首)くくれよ」という、「カズ」限定の恫喝語ということで決定しました。
【曙覧】
橘 曙覧(たちばな あけみ、文化9年(1812年)5月 - 慶応4年8月28日(1868年10月13日))は、幕末期の歌人、国学者。身近な言葉で日常生活を詠んだ和歌で知られる。
2歳で母に死別、15歳で父が死去。叔父山本平三郎の後見を受け、家業の酢製造業を継ごうとするが、嫌気をさし、28歳で家督を弟の宣に譲り、隠遁。京都の頼山陽の弟子、児玉三郎の家塾に学ぶなどする。その後、飛騨高山の田中大秀に入門し、歌を詠むようになる。田中大秀は、本居宣長の国学の弟子でもあり、曙覧は、宣長の諡号「秋津彦美豆桜根大人之霊位」を書いてもらい、それを床の間に奉って、独学で歌人としての精進を続ける。門弟からの援助、寺子屋の月謝などで妻子を養い、清貧な生活に甘んじた。当初足羽山で隠遁していたが、37歳の時、三ツ橋に住居を移し、「藁屋」(わらのや)と自称した。43歳の時、大病をし、名を曙覧と改めた。
1858年、安政の大獄で謹慎中の松平春嶽の命を受け、万葉集の秀歌を選んだ。曙覧の学を慕った春嶽は、1865年、家老の中根雪江を案内に「藁屋」を訪れ、出仕を求めたが、曙覧は辞退した。
1868年(慶応4年)8月死去。享年57。明治に改元される10日前であった。
「合致んこ」
通常、「合致」や「合致する」は、言明と事実、言明と定義など二つのものがピッタリ合って一つになることを指す。類語の「一致」があらゆる物事について「二つの物事がピッタリ一つになること」を意味するのに対して、「合致」は具体的な物事にはあまり使われないという差はある。「DNAが一致した」とは言うが「DNAが合致した」とは通常、言わないのである。「合致」は概念など「抽象的なものの一致」に使われるとみてよい。
このように、「合致」とは、本来は「ぴったり合うこと。一致すること」という意味ですが、若者言葉としての意味は「合流する。落ち合う。待ち合わせる。」です。読み方はいずれの場合も「がっち」です。「どこそこで合致する」なら待ち合わせ場所を、「何時に合致する」なら待ち合わせ時間を示しています。
一見全く別の意味になっているように見えますが、この用法は「ぴったり合う、一致する」という本来の意味からの派生なのです。特定の日時と場所に示し合わせて落ち合う、つまり「複数の人間が行動を一致させる」というわけです。あるいは、「合流する」という言葉が訛って「がっちする」になり、音が一致する熟語を当てはめたのが由来とみることもできます。
また、「合致する」を略して「ガチる」という形もあります。
ただし「ガチる」という言葉の主な意味は「本気で頑張る」「真剣に頑張る」というもので、この場合「合致する」とも無関係です。
本来、「本気で頑張る」「真剣に頑張る」という意味だった「ガチンコ」は、いまでは「ガチ」と略され、どちらかというと、「リアル」という言葉と同じニュアンスをもつようになっています。出川哲朗の「リアルガチ」という概念は、同じ意味の言葉を並べて「リアルを超えたリアル」というニュアンスを醸し出し、本来主観的な概念だった「ガチ」に客観性を付与することに成功しました。
「合致んこ」は、「合致」と「ガチンコ」の合成語であり、簡単に言うと「ガチで合致している」ということですが、「ガッチンコ」という音声上のニュアンスから「単にピッタリ一致しただけでなく、さらに両者とも一致した相手に食い込み気味になって、かえって差異が感じられる様子」ということになっています。さらに。「んこ」が平仮名になっているので「ちんこ」という性器的なニュアンスも含まれ、「何処からか合流した二つの抽象的なもの(普遍)が、ペニスとペニスが両者相手の尿道に食い込むかのごとく、がっちりと正面から一致して少しも逸れる様子がない様。また、そこからかえって生じてくる二つのもののもつオーラ(リビドー、エナジー)の違い」というあたりで意味が確定しました。
〔派生〕「真理の合致んこ説」
「真理の対応説」は、言明と事実の一致や対応を真理とする説であるが、「真理の合致んこ説」は、もちろん一致や対応を含むものの、むしろ言明と事実の「合致んこ」から生じる「ガチリアルな異物感」の方に重点が置かれている。これは、「一致しない、対応しない」という意味での「差異」ではなく、「ガチンコで合致するからこその差異」であり、真の客観性は、単なる一致や対応を超えたところにある、とするものである。
「頭ない脳ミソ」
現代フランスの劇作家 A.アルトーが作った言葉で,G.ドゥルーズと F.ガタリがアンチ・オイディプスの中で再び取り上げ,一般に広まった「器官なき身体」を踏まえた概念。
アルトーは,「身体は身体。器官はいらない。身体はけっして有機体ではない。有機体どもは身体の敵。人のすることは,どんな器官とも協力なしに全くひとりでに起こる」と言っているが,ドゥルーズらは,それを受けて個々の器官を統一する高次元の有機体,全体を支配する組織体を否定している。一般に,部分を一定の役割に閉じ込めてしまうような統一体が存在するという前提を捨てて,それぞれの部分に多様な組み合わせの可能性を開き,常に流動的で,新たな接合を求めていこうとする考えを表している。
「頭ない脳ミソ」は発想としてはむしろこの逆で、「身体なき器官」の発動としての「思考」、イメージとしては、宮崎駿『もののけ姫』で頭部を失った「シシ神」が「ディダラボッチ」へ、さらに「黒ずんだ半透明の泥状の液体」になり拡散していく姿を思い浮かべればいいでしょう。
NHK の『モーガン・フリーマン 時空を超えて「海は思考するのか?」』という番組で、「海」の「思考」を取り扱っていましたが、「脳」という器官が「頭」という身体的限界を突破したらどうなるのか?曙覧(愛美)の問題提起は、人工知能の発達によって現実味を獲得しつつあるこの問題を一語で表現したものなのです。
「バカハンネ人間」
名前(ハンドルネーム)でインパクトを与えて喧嘩の主導権を握ろうとする喧嘩師。また、そのような喧嘩師を揶揄する言葉。
例えば、「うんこ」というハンネで喧嘩を始めたとしましょう。それまで真面目に喧嘩していたスレッドは、このハンネの登場で一気に場が相対化します。真面目に喧嘩していたのが馬鹿らしいというような空気感が生まれ、喧嘩師「うんこ」はある種の超越性を獲得することとなります。ただし、お笑いで言えばこれは「出落ち」であり、その効果は長続きしません。他の喧嘩師が一瞬生まれた「馬鹿らしい」という空気に耐えて真面目な喧嘩を続ければ、「うんこ」は次第にその「場」から浮いてしまうのです。
いわゆる「文字喧嘩」は、コンスタティブ(事実確認的発話)なレベルで議論や大喜利や自分語りや雑談を行いながら、パフォーマティブ(行為遂行的発話)なレベルで精神的な殴り合いや様々な意味での戦闘を行うという複雑な言語行為であるが、上記のように、必ずしもパフォーマティブなレベルで優位性を獲得したものが、そのまま勝利者となるわけではないことを「バカハンネ人間」は示しているのである。