喧嘩しませんか?

75南雲◆NAGUMO/BxE
2019-02-18 05:21:16
ID:yIwqsxN.

天使の主張
・純粋に好き嫌いという感性に対しては否定のしようがない、だから不毛な争いになり、天使はそういう論争をレベルが低いとみなしている(>>18の要約)

タイラクの主張
・感性を合理性をもって否定することが出来れば、相手の感性の健全性を否定したも同然である。客観視した場合にどちらの感性の方がより優れているかと比べることは容易い(>>20の要約)

>>26天使
>「ご飯がすきだ」という理由がそういう合理的な理性に基づいたものではなく、先程述べたように「純粋な感性」に理由があるのであればいくら合理性を説いても否定できないじゃん

天使は、(ご飯とパンの例で)「純粋な感性」に基づいた好き嫌いは、合理性を根拠に否定できないという立場。つまり「不合理な好き」も否定できない。

>>27タイラク
>人殺しが好きという感性が生み出すデメリットを説くことにより第三者から見て「悪だ」と思わせることが出来ます。

(人殺しの例で)感性が生み出すデメリットを根拠に客観的な悪を主張できる。つまり不合理であること(デメリット)を根拠に感性を否定できる。

また、デカルトの例により、
>能力の範囲外で起こった事象に対して負い目を感じる人種の「感性」の健全性を理性的に否定したこととなります。
デカルトは感性を合理性をもって否定してることを例示。

さらにパンとご飯の例では、どちらが日本の利益に貢献しているかの観点をひとつの例として、
>このような様々な判断基準を持つ第三者の薄っぺらい共感を得ることで欲求を満たすことも出来ます。
とし、さらに相手の感性のメリットを理解することで
>合理的によりメリットがある方を勧めることが出来る
と好き嫌い論争の意義も主張。

タイラクはこの>>27で最も多くを語っている。

それに対する>>34天使の反論もポイント
>説得により合理的なのはパンだということをいくら認めさせることができたとしても、「ご飯が好き」という感性に誤りがあることにはならないわけですから、どちらか一方に真実性や正当性が傾くことはないのは明白でしょう。

感性の合理性は認めさせることができるが、感性に誤りがあることにはならないと主張。天使は一貫して感性の「合理・不合理」の判断は可能だが感性の誤りは証明できない(純粋な感性において合理性と正しさは別)とする。ちなみに「明白でしょう」と言っているが、天使の立場を是認すれば明白でも、客観的には明白にはなっていない。

そして感性に正当性を付与するならば、

>あなたが書いているように「どちらが国の利益になるのか」という論点を据え、利益という合理性で推し量れる点を創出することで初めて可能

そしてそういう論点を据えたら

>この論争はどちらに利益があるのかという合理性の追求になるわけであり、私が低レベルとみなす「純粋な好き嫌いという感性による対立」とは一線を画するものになります。

>>35タイラク
>正当性がどこではかられるかも人それぞれでしょう。
としたうえで、
>メリットを齎すものが「正しい」という思想を持っていた場合、よりメリットを齎す方に正しさを感じるのは必然です。

よりメリットをもたらす感性が正しいことは必然とする。が、上の天使の「明白でしょう」が明白でないことと同様、この「必然です」も、それを必然とするような思想を持っていた場合の話であるから一般的な必然性はない。

この部分は天使>>34
>メリット云々は考慮せず、あくまで感性の否定はできないから不毛だということを言っています。

ここですれ違いが発生している。天使はメリットのある感性がそれを根拠に正当だとは言えないという立場。タイラクはメリットを合理性としてそれを根拠に感性に正当性を付与できるという立場。

タイラク>>35の続き
>共通認識さえ出来ればメリットデメリットの多寡を正当性の尺度にすることは出来ますよね。そしてその時点で純粋な感性による客観的事実の対立になっていますね。

当然だがタイラクは上記の立場に基づいて主張を展開している。しかしそれは天使の立場ではないから天使は受け入れられず、タイラクの言うとおりの「堂々巡り」に陥っている。

>>40天使は、長文の大半はおおむね従来の主張をまとめたもの。ただ、
>あなたも言っているように正当性がどこではかられるかは人それぞれです。
とし、
>正当性が人それぞれなら着地点も人それぞれだし、人それぞれのことをどれだけ言い争っても人それぞれの帰着しか見いだせない議論
であるから不毛としている。

>>41タイラク
>理性ではないものの是非をメリットデメリットという客観的事実に基づき否定することが出来ると私は示しました。

タイラクは>>35で「共通認識さえ出来れば」として同様のことを言っているが天使は「人それぞれ」、つまり共通認識を前提としていない。そしてこの「人それぞれ」はタイラクがやはり>>35で「正当性がどこではかられるかは人それぞれ」と自分で持ち出した主張だから、タイラクは自縄自縛に陥っている。

>非合理的だという客観的事実は各々に内在する正当性の基準に触れる場合があります。そのような基準を持つ人からしてみれば「非合理的である」という事実は十分に不当であると断定することが出来ます。

堂々巡りになっている原因は、タイラクが合理性が感性の正当性の根拠になるという立場であるのに対し、天使は合理性は理性であるから感性の正当性の根拠にならない、という立場ですれ違っているところにある。

その中で、各々に内在する正当性の基準が「人それぞれ」であることは双方合意の事項だが、上の「「非合理的である」という事実は十分に不当であると断定することが出来ます。」も、タイラクの立場では正論でも天使の立場では感性を不当と断定できない。
どっちが正論かではなく、立脚点が異なったまま。

>各々の中に正当性の尺度が存在するのであればその時点で論争における基準は存在するという証明になりますし、寧ろ正当性をはかれるという証明にもなるじゃないですか。貴方、自滅していますよ。

「各々の尺度」が「人それぞれ」という共通認識の下では、論争における基準は人それぞれ異なったものが存在するから、正当性をはかれる証明になっていない。

ここまできたら私の判定が天使の勝ちだとわかると思います。

改行が多すぎるそうで1レスにまとめられなかったので、続きます。

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