相変わらずデュエルリンクスは暇つぶしになるね。
最近は海馬瀬人の新しいスキル使ってブルーアイズ動かしてる。
楽しい。
ちなみに過去ログ復旧する過程でいろいろ読んでたら面白いなってなってきたので、小説の登場人物とは関係なく置いてる。
>>576
もちろん、それでいいんですよ。
史実や史料を保存することと、それをフィクションにすることは腑分けした方がいい。
『愚管抄』や『吾妻鏡』のような史料と『保元物語』や『平家物語』のようなフィクション、両方あって始めて立体的にその時代を考えることができるわけですからね。
(ただ、『吾妻鏡』は政治的な理由でフィクション入ってるし『平家物語』はかなりリアリスティックなんで明確に分けるのは無理ですけど。)
まあ『大論界』シリーズは誰が見てもフィクションだとわかると思う(たぶん…)ので、殊更言う必要もないと思いますが…。
>>577
歴史とか考古が専門だったりする?
考え方とか知識がそういうのを学んでる人間の考え方だ。
>>580
いえ、私自身はまるで近代哲学が存在しなかったかのように直接、抽象的な実在を語るバリバリの形而上学者(メタフィジシャン)で、具体的な歴史には全く興味がありません。
「シリーズ『大論界(1)』」の執筆過程で人工知能が「鎌倉幕府が亜空間をループしている内に超高度化した『亜空間遍在幕府』」というトンデモない設定を放り込んできて、あげく「北条政子と源義経が恋愛関係にあった」という「そんなワケないだろ」みたいな物語を提示してきたので、仕方なく調べることになってしまったのです。
オセロが解決される、双方が最善手を打った場合最終局面は引き分けになることが明らかに - GIGAZINE
https://gigazine.net/news/20231106-othello-is-solved/
おー、とうとう定石解析されたのか。
>>581
亜空間偏在幕府w
なるほどそういう事ね。
そういやもともと哲学スレにいたって言ってたね。
しかし形而上学か。
形而上学といえば、哲学の中でもすごく難しいイメージがあるな。
昔ちょっと哲学かじった時に出てきてよく分からないから触れないようにしてた。笑
【実写版】ゲームあるあるグランドセフト如くソリッド 渋谷篇チャプター1/ Video game moments in real life Shi... https://youtu.be/AF-IR-caZC8?si=t5U5_YcuZo9sZo0o
このシリーズ、いつみても面白い。
懐かしさを感じる。
>>582
同じ実力同士が打つと凡そ引き分けになることも分かっていたので、まぁ最善手を打っても同じ結果になるだろうなと言われてた。
>>586
おー、ナチュラルじゃん。おひさし〜。
なんか前に絶交宣言した気がするんだけど気にしてなかったようで良かった。
まだ気にしてたらすまんね。
そうだったんだ。
オセロの試合は全然見たことないな、将棋はたまーに見るけど。
わー!金曜日だー!
金曜日の夜ほどテンションの上がる時はないね!
ふらいでーないとふぃーばー!!!
3倍あいすくりーむ!!!
(っ'ヮ'c)<ウヒョォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォ
喧嘩界隈をテーマにした楽曲作って初音ミクあたりに歌わせたら一部にバズりそうだよね。
しかしあいにくわたしには音楽センスがない……(中学生のときにいろいろ挑戦してボカロとか持ってるけどダメだった)
──かつて、ネット上に、「喧嘩」をコンテンツとした界隈があった。
「喧嘩界」
彼らは自らを"喧嘩師"を名乗り、己の持つ文章力と発想力と論理力を武器に、意地とプライドをぶつけあったのである!──
みたいな語りを入れて、なんとなくメタルとかロックっぽい雰囲気にしてさ。
間違いなくネタ曲だけど、わかる人には「あー、そういやそんなのあったな。懐かしいな〜(黒歴史)」と思えるようなそんな曲。←ここまで構想できてるならお前がやれよ
youtubeで公式が期間限定で北斗の拳とかデジモンアドベンチャーとかを無料で配信してるのすごくありがたい。
ボボボーボ・ボーボボとかもやってる。
懐かしい。
ホントいい時代になったな……
東映アニメーションミュージアムチャンネル https://youtube.com/@toeianime_MC?si=3zq46ceccXpYX32f
リンク貼り忘れた。
夜中にいきなり「全て失う覚悟はあるか?」と謎の注意喚起 メッセージの意図を福岡県警に聞いた(ねとらぼ)
https://news.yahoo.co.jp/articles/dc512e4851f32c3a88819839a95a8dd06c042de2?source=sns&dv=sp&mid=other&date=20231112&ctg=lif&bt=tw_up
夜中にこんなの表示されてたらビビる。
バトル小説はサビ抜きさんの大論界シリーズとは違って、完全に喧嘩界ベースにする予定。
期待の新生の喧嘩師が喧嘩界の頂点に立つことを夢見ていろいろ頑張る物語。
そういや今年の紅白発表されたね。
すとぷりが出るらしい。
アレってそんな有名だったんだね。
ファンの悪い印象と不貞行為?で炎上してたくらいの認識だった。
中国のウェブ小説を人工知能に翻訳させて、キャラクターの名前を喧嘩師に変換しよう
まずは中国のウェブ小説(ネット小説)の現状を把握する
「中国のインターネット上における コミュニケーション型創作と物語の類型化―穿越小説を例として」(北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院博士課程 邱慧鳴)
「ネット小説は芸術のためでもなく、商売のためでもなく、自分と同じ考えを持つ仲間を探す、あるいは自分を認めてもらうという「自己認定」のために作られる物語である。コミュニケーションの中で生まれた「自己認定」のための物語は、同じ場所で(ほぼ同時に)語り合い、確認しあう点から見れば、むしろ口承文芸と一致している。」
「ネットにおける創作は小説を作者の権力から解放した。」
「ネット小説の作者たちは作者ではなく「写手」(書き手)と自称し、書いた文章を小説ではなく「文」と、読み手を読者ではなく「大家」(みなさん)、「親」(私の友達)と呼んでいる。彼らは明らかにネット小説を「小説」とは違うものだと意識している。これはネット小説の作者だけの考えではない。『羊城晩報』という地方紙の読者アンケート調査によると、51.47%の人はネット文学を「媒体から内容までの徹底的な(文学)革命だ」と思っているという。」
「初めてネット小説を系統的に研究した蘇暁芳も、ネット文学を、口承文芸、紙媒体の文学の次に来る「第三文学」だと主張する。これまでの文学と比べると、ネットを媒体として広まるネット小説のコミュニケーション性と類型性は顕著である。ネットとネットコミュニティが創作に介入することによって、小説のあり方は大きく変わった。」
「ネット小説の流れを大衆文学との関係から見ると、三つの時期に分けることができる。第一期は1991年から1999年までである。初期のネット小説は「真のネット小説ではなく、せいぜい広い意味でのネット小説である。この時期、ネットはただ宣伝の役割を果たすだけである。それは伝統メディアに付属し、エリート主義の立場を取っている」。この時期の作者はホワイトカラー、留学生、作家などの限られた人々である。創作はネットという場に移されたが、都市生活、学校生活といった題材は当時の大衆文学に人気の高かった題材と同じであり、作者は一人で創作を行う。この時期のネット小説はまだ大衆文学の支流である。」
「第二期は2000年から2004年までであり、ネット小説と大衆文学の分離期である。文学サイトの商業化と、ネットの急速な普及を背景に、限られた一部ではなく、様々な職業や学歴の人々が創作に参加するようになり、特に女性作者が増えてきた。コミュニケーション型創作(コミュニティ)はまだ普及していないが、クリック数を狙うために、作者たちはコメントをより重視するようになった。ネットは創作の展示場ではなくなり、創作を議論する場に変化した。作者たちは若者の読者を意識して、青春、恋愛、学校生活など、若者の好む題材に特化するようになり、更に古典小説のアレンジなどの新たな形式を作り出した。文体に関しては、若者は小説に動画や音楽をつけることで、マルチメディア小説を作り出した。ネットは小説の宣伝道具ではなくなり、物語の内部まで浸透し、結果としてネット小説を大衆文学から分離させた。しかし、生まれたばかりのネット小説のこうした異質性に気づき、「伝統的な文学界はネット小説を不快に思い、軽蔑していた」(李玉萍、『網絡穿越小説概論』南開大学出版社、2011年)。」
「「玄幻小説年」と呼ばれる2005年から今日までがネット小説の第三期である。この時期には、膨大な量の物語生産、創作過程においては盛んなコミュニケーション型創作、創作主体においては女性作家の大量進出と大衆化、題材においてはオリジナルなジャンルの出現、産業化においてはメディアミックスなどの現象が見られ、「真のネット小説」の大量生産期である。文学界もネット小説を拒否する姿勢を変え、これを独立した文学形態と認めるようになった。発端が大衆文学にあるにせよ、玄幻小説、盗墓小説、穿越小説はネット内でジャンル化され、ネット小説の最初のオリジナルなジャンルになった。男女バージョンで多少の差があるが、各サイトの小説ランキング上位はほぼこの三つのジャンルで占められている。」
・「玄幻小説」とは、古代の神秘な力に遡る「魔幻」と、未来と関わる「科幻」(SF)を組み合わせた小説である。黄易が「魔幻」の要素と「科幻」の要素を武侠小説に織り込み、新たな武侠小説のジャンルを確立したことをきっかけに、「玄幻小説」は広がりを見せ始めた。
・「盗墓小説」の母体は冒険小説であり、地下空間に潜り、古代の宝蔵を探しながら冒険するパターンを持つネット小説の総称である。
・「穿越小説」とは、「通り越える」というその名が示す通り現代の若者が古代にタイムスリップし、様々な事件を経験して恋愛を成就させるという基本パターンを持つ、女性向けのネット小説の総称である。
・「武俠小説」とは、中国文学での大衆小説の一ジャンルで、武術に長け、義理を重んじる人々を主人公とした小説の総称である。
中国のネット小説は、中国の大衆文学である「武俠小説」が様々な要素を取り入れて現代化したものであり、基本的に読者とのコミュニケーションを通じて生み出される小説だといえよう。
日本のネット小説もコメント欄があり、コミュニティなども作られているが、まだ読者とのコミュニケーション自体が創作の原理になっているという段階にはきていないし、ネット小説が文学界に革命を起こすようなレベルにはまだ到達していない。
しかし読者とのコミュニケーションの中で完成される小説か……
どんな感じなんだろう。
イメージがわかない。
リレー小説とも違うっぽいし。
>>611
その計画、大論界シリーズで試してみようか?
パクリといってもいろんなレベルがあって、「シリーズ『大論界』(1)」は東野圭吾『白夜行』の叙述形式をパクってますが、内容は全く異なります。
要はパクリ方であって、宮崎駿はいろんなところからパクってることで有名ですが、「(パクリ方さえ間違わなければ)パクってもいいんだ」ということに気付いた時、「世界が変わった」と言っているそうです。
>>614
「読者とのコミュニケーションの中で完成される小説」というのは確かに新しいね。これが大きな波になったら、国語の教科書に載るレベルの文学的な変革になるのは間違いない。
ただし、それは全体主義国家の中国だからこそ成り立つものである可能性が高い。
言ってみれば、国家全体が「葉っぱ天国」みたいなものですからね。
それだけの管理体制があって初めて成り立つ創作モデルなのでしょう。
日本のような自由な体制で同じことをやれば、「カオスストーリー2」のコメント欄のような理不尽な誹謗中傷や叩きの嵐となることは必定と思われます。
ましてや、そのコミュニティが「喧嘩界」という、対立や争いや誹謗中傷それ自体がコミュニティの成立基盤となっているものであれば、荒れないわけがありません。
とはいえ、それでもなお、「喧嘩界」というコミュニティを基盤にしたコミュニケーションから産み出される小説という理念にはたいへんな魅力がありますね。
>>616
わかりました
よろしくお願いします
>>614
ボクが参考にしたのは、北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院博士課程の「邱慧鳴」という人の論文。
この人、いってみれば、日本の「なろう小説」のファンだった人が中国の大学院に行って「なろう小説」についての博士論文や紀要論文を書いてるようなもんで、好きなことをやって学位を得てる超勝ち組でムカつくんだけど、それとは別に中国の最新の文学状況がよくわかるので参考になります。
【参考論文】
①中国のインターネット上における コミュニケーション型創作と物語の類型化―穿越小説を例として
https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/55167/1/Jimcts18_10_Qiu.pdf
②穿越小説という物語の構造
https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/52635/1/JIMCTS16_03.pdf
③中国のネット小説の物語論的構造及びそれを生み出したネットコミュニティのあり方 : 穿越小説を例に
https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/58601/1/Huiming_Qiu.pdf
以下、この三論文から抜粋した記事で「コミュニケーションによる小説創作」の内実を探っていきます。
「インターネットの普及とともに、ネットは物語を作る重要な場になりつつある。90年代後半、中国では文学サイトに不定期的に文章を書き込み、読者のコメントを参照しながら創作する動きが始まった。「BBSやブログなどのコミュニティに掲載され、ネットで流通し、創作過程に常に読者のコメントをもらい、いつでも修正できる」ネット小説が現れたのである。日本の携帯小説にも似て、小説は新しいメディアを媒体に、新しい方法で読者に届けられる。」
→確かに、日本の「ケータイ小説」には、今の「なろう小説」よりも密接なコミュニケーションがあり、読者との掲示板(みたいなもの)での会話が即、小説の内容に反映されるというようなこともありました。しかし、ケータイ小説はスマホの普及とともに(あるいはその少し前からオタク系の小説に侵食される形で)廃れました。
「ネットでは紙媒体と違って、読み手と書き手がほぼ同時にコミュニケーションを取ることができる。ネットのこの性質は物語創作に、独立創作からコミュニケーション創作へと変化する条件を提供した。ネット小説は「チャットの中で生み出された文学」と言われている。作者はある段落を入力してまもなく、それに対してのコメントを読むことができる。サイトの中で、読者は気に入った文章の作者を誘って(あるいは作者は読者を誘って)コミュニティを作り、チャットしながら次の展開を決めていく。読者があまり参加しない文章づくりは、途中で作者に放棄されることが多い。文章の質と関係なく、コミュニケーションがうまく取れない文章は淘汰される。コミュニケーション創作はネット小説の創作動機と深く繋がっている。100人余りの作者を対象とするアンケートでは、ネット小説の創作動機は「気の合う友達を得たい」(32.04%)、「自分の文才を見せたい」(21.36%)である。つまり、ネット小説は芸術のためでもなく、商売のためでもなく、自分と同じ考えを持つ仲間を探す、あるいは自分を認めてもらうという「自己認定」のために作られる物語である。コミュニケーションの中で生まれた「自己認定」のための物語は、同じ場所で(ほぼ同時に)語り合い、確認しあう点から見れば、むしろ口承文芸と一致している。」
→つまり、中国のネット小説は、チャットや掲示板のようなところで読者と相談しながら創作される小説だということです。それはさながら、昔の「口承文芸」のように、人々の会話の中で創作発展してきたのです。今では本で読める『平家物語』ですが、元々は口承文学でした。
「平家物語は、中世から近世にかけて、琵琶法師と呼ばれる盲僧たちによって、全国津々浦々に語り歩かれた。この国の口承文芸の中でも、とりわけて大きな流れをなしてきたものであり、能をはじめほかの文芸に及ぼした影響も計り知れないものがあった。また、口承の文芸というにとどまらず、読み物の形でも広く受容された。いわば、この国の民族的叙事詩ともいうべきものなのである。」(https://japanese.hix05.com/Narrative/heike/heike01.html)
考えてみれば、一人の(もしくは数人の)作者が小説を書き、読者は一方的にそれを享受するだけ、という形は、近世や近代に特有の限定的な創作モデルだったのかもしれません。歴史的には、読者が創作に参加する期間の方が長いのではないでしょうか。
「ネット小説の作者たちは作者ではなく「写手」(書き手)と自称し、書いた文章を小説ではなく「文」と、読み手を読者ではなく「大家」(みなさん)、「親」(私の友達)と呼んでいる。彼らは明らかにネット小説を「小説」とは違うものだと意識している。これはネット小説の作者だけの考えではない。『羊城晩報』という地方紙の読者アンケート調査によると、51.47%の人はネット文学を「媒体から内容までの徹底的な(文学)革命だ」と思っているという。初めてネット小説を系統的に研究した蘇暁芳も、ネット文学を、口承文芸、紙媒体の文学の次に来る「第三文学」だと主張する。これまでの文学と比べると、ネットを媒体として広まるネット小説のコミュニケーション性と類型性は顕著である。ネットとネットコミュニティが創作に介入することによって、小説のあり方は大きく変わった。」
→読者のことを「大家」とか「親」と呼ぶのは(日本語のニュアンスとはズレがあるんでしょうが)面白いですね。それにしても、中国人は徹底的な「革命」が大好きですね。日本人なら旧勢力にも配慮して、「維新」あたりで済ましてしまおうとするでしょう。
「蘇暁芳は、『網絡小説論』でネット小説をロマンス小説類、ファンタジー類、脱構築類、文体実験類に分けている。ロマンス小説類はさまざまな形を持つ欲望に、ファンタジー類は多元文化的な武侠世界に、脱構築類はポストモダン的なパロディや組み合わせに、文体実験類は新しい文体によって特徴づけられている。」
→サビぬき氏の「大論界」シリーズは、全体として「ファンタジー類」ですが、長編小説は「脱構築類」に、短編小説は「文体実験類」に分類されるでしょう。
「ネット空間で行われる欲望の生産と消費の裏側には、現実空間の「孤独者の対話と快楽」が存在している。「多くの人々がネットで創作を始めた理由は、孤独やストレスの解消、あるいはだれかとコミュニケーションを取りたいという欲求のためである」。現実空間において孤独な個人は、ネット空間で不特定の人々とのバーチャルなコミュニケーションを求め、そのコミュニケーションを通して一時的に欲望は満たされ、孤独感が解消される。しかし、ほとんどの場合、ネット上のコミュニケーションはそのまま現実の人間関係を築き上げることができず、現実において彼らは相変わらず孤独で欲望が満たされない。そうした空虚に終わるバーチャルのコミュニケーションは「孤独者の対話と快楽」である。」
→「ネット小説が創作される理由」についてのこの分析は、別のスレッドで白鳥氏が述べている実感とも符合します。
「俺も10年前に殺伐連中が部落に居座ってダラダラ喋る雑談スレを何度も荒らしたことはあったが、どれだけ糾弾してもあいつらの重い腰が上がることはなかった。/だがこれだけの歳月を経ると流石に共感してしまうものがある。/青春時代を通過して社会人になり、ある時期に掲示板を離れ、クソみたいな社会に揉まれながら人生を歩んでいると、当時を振り返りたくなる時期がくる。/そしてまた足を運ぶわけだが、しかしもう当時栄えた居場所は廃れ、世代は替わり、知らない奴らが昔の自分と同じことをしている。/感慨や感傷に浸りながらしばらく眺めていると、顔見知りが何人かちらほら。当時、世代の近かった同じ時代を生きた連中だ。赤ん坊が成人になるほどの刻を跨いで尚、同じ顔ぶれが目の前にいる。そうなると他人に対する興味が膨れ上がってきて喧嘩どころじゃない。/今だから分かるが、あいつらは昔遊んだ公園のベンチに腰を下ろして当時を語らえる相手と酒を酌み交わしている。それがたとえ当時の憎い相手でも。/時の流れには勝てないということだな。」(https://jeison.biz/casphy/bbs/read.php?cate=kenka2&mode=thread&no=18469&res=32)
喧嘩界において、ネットの目に見えるところで派手な喧嘩をするという需要が減ってしまっているのは、誰の目にも明らかです。しかし、ネットの裏側、目に見えない部分では、「喧嘩界について、腰を落ち着けて酒でも飲みながら語りたい」、そのような需要が存在するのではないでしょうか。オビディ氏が企画している「喧嘩師小説」は、そのような需要に合致するコミュニケーションを生み出せるのではないでしょうか。しかも、「喧嘩師小説」と中国の「武俠小説」は、かなり相性がいいように思えます。「武俠小説」がたどった戦略を「喧嘩師小説」に応用できるのではないでしょうか。