>>28
歌い手のコメント欄を見てれば時々ありますよ。ポイントは「この歌い手より〇〇くんの方が歌上手いよー!」みたいに、歌い手と他の歌い手を比較しているコメントです。このようなコメントには信者が食らいつくことが多いです。
>>31
名前は秘密にしろといわれてるので明かせませんが、活動場所はTwitter、YouTube、LINE、キャスフィと言っていました。
>>27
喧嘩における否定とは、単に相手の意見に対して「それは違うよ」ということではなく、正確な理由を述べることにより客観的真実として眼前に叩きつけることだと考えており、そういう意味において「純粋な感性に対しては否定のしようがない」という事を述べています。
つまり、あなたが私に指摘している「感性の否定とは感性を変えることだ」という考えを抱いているのではなく、感性の否定とは命題におけるどちらか一方に真実性、あるいは正当性を付与できるか否かということだと考えています。
そして、ご飯よりパンが好きだという感性の持ち主に対して、パンの合理性を説くことはいくらでも可能ですが、それによってパンが好きであることの正当性や真実性は担保されません。
説得により合理的なのはパンだということをいくら認めさせることができたとしても、「ご飯が好き」という感性に誤りがあることにはならないわけですから、どちらか一方に真実性や正当性が傾くことはないのは明白でしょう。
もしもそこに正当性をつけたいのなら、あなたが書いているように「どちらが国の利益になるのか」という論点を据え、利益という合理性で推し量れる点を創出することで初めて可能になるのではないでしょうか。
しかしこうなった時点で、この論争はどちらに利益があるのかという合理性の追求になるわけであり、私が低レベルとみなす「純粋な好き嫌いという感性による対立」とは一線を画するものになります。
また、好き嫌い論争は様々なメリットをもたらすことが可能であり、それゆえに不毛ではないという意見についてですが、私は別にメリットの有無に焦点をあて不毛か否かを判断しているわけではありません。
メリット云々は考慮せず、あくまで感性の否定はできないから不毛だということを言っています。
>>34
堂々巡りですね。どちらの感性の方がメリットを齎すのかという論題においては客観的事実は有効ですし、実際に話されています。純粋な感性から産まれるメリットデメリットという客観的事実から目を背けないでいただきたいです。客観的事実が存在する以上、その両方の客観的事実を比べることは可能ですし、実際に行われています。
それと、正当性がどこではかられるかも人それぞれでしょう。メリットを齎すものが「正しい」という思想を持っていた場合、よりメリットを齎す方に正しさを感じるのは必然です。貴方の尺度ではからないでいただきたいです。
そしてこれは裏をつけば、ある一方はもう一方と比べてどちらがより正当性があるかの基準において劣っている場合、相対的にもう一方が劣ることになります。何せメリットデメリットというのは客観的事実に基づいて主張することが出来ますから。
それと
>もしもそこに正当性をつけたいのなら、あなたが書いているように「どちらが国の利益になるのか」という論点を据え、利益という合理性で推し量れる点を創出することで初めて可能になるのではないでしょうか。
と貴方は仰っていますが、論点は内在的に存在しているのですよ。それを「より正当性があるのはどちらか」という短文にまとめているだけであり、基準を作ることは容易なのですよ。共通認識さえ出来ればメリットデメリットの多寡を正当性の尺度にすることは出来ますよね。そしてその時点で純粋な感性による客観的事実の対立になっていますね。
さて、貴方が抽象的にして根拠を述べていない部分を抽出しましょう。
まずは
>純粋な感性に対しては否定のしようがない
という部分です。なぜ否定のしようがないのでしょうか。
そして次に
>純粋な好き嫌いという感性による対立
という部分です。貴方は何を指しているのでしょうか。純粋な好き嫌いという感性はあくまで名詞であり、それらの名詞から生じたどちらがより優れているかなどといった主張が対立するのでは?それならばメリットデメリットを基準にした正当性による衝突が起きても純粋な感性による衝突と呼べるのでは?
このふたつに答えない限り貴方はいつまで経っても抽象的に論を述べているだけで、なんら正当性がないことになります。きちんと論理的に述べてください。
うそつきミルフィーユが敗れたようだ
うそつきミルフィーユは四天王で最弱
キャスフィ喧嘩板の面汚しよ
>>35
一旦整理しますけど、私が提起した問題は、好きだ嫌いだというような純粋な感性による論争は否定のしようがなく、それ故に不毛であるということです。
互いの感性の中にメリットやデメリットを見いだし、それらを滔々と説いたところで、例えばAさんがパンよりもご飯を好きだと思っている感性を非合理的だとみなせるケースはあるにしても、誤りであると断定できることはないわけです。
つまり、好きだ嫌いだ論争に正誤はないということであり、正誤のないことをいつまでも言い争っても仕方がなかろうということです。
そして、あなたも言っているように正当性がどこではかられるかは人それぞれです。
感性の対立における正当性の基準というのは人それぞれであり、だからこそ前レスで書いたように好きだ嫌いだ論争に正当性を付与することはできないわけですし、またそれが不毛であることの理由だし低レベルだとみなす根拠です。
わかります?
あなた自分で正当性は人それぞれだっていってるんですよ。
正当性が人それぞれなら着地点も人それぞれだし、人それぞれのことをどれだけ言い争っても人それぞれの帰着しか見いだせない議論なんてする意味あるんですか?
ないですよね。
金子みすゞさんも言ってるじゃないですか。
みんなちがってみんないい ってね(笑)
てかさ、あなたは喧嘩初心者みたいだから仕方ないんだろうけど一体どういう攻め口でやりたいのかまるでわかりません。
>メリット・デメリットというのは客観的事実に基づいて主張することができますから
みたいな分かりきったことをいっているけれど、メリット・デメリットを主張することで好き嫌い論争に収拾つけられると思ってるんですか?
パンよりご飯が好きだ!と思っているAさんに対して、パンが好きなBさんは一生懸命パンのメリットを説きました。
努力のかいありAさんはパンのメリットを認めました。
しかし、パンのメリットを認めたからといってご飯が好きだという感性が否定されることはない。
メリットがあろうがなかろうが好きなものは好きなのだから。
その感性が否定されない以上Aさんには何の批点もないし、Bさんもただただパンのメリットを認めさせることができただけに過ぎず、論争に於いてなんの加点要素もない。
間違ってはいけないのは、この二人はメリットの有無について対立しているのではなく、どちらが好きかという感性の部分で対立しているわけであり、いくらメリットの部分で認めさせたからといってなんのプラスにもならないということ。
だから私はあなたがどのような攻め口で私を攻略しようと考えているのかわからないのです。
感性における論争においてもメリット・デメリットを主張することはできる。
しかしそれがなんだというのです(笑)?(笑)?
理解できません。
最後に私が根拠を述べていない部分があるという点についてです。
はっきりいいますけど、私根拠述べてますよね?
なぜ純粋な感性は否定のしようがないかについて、感性とは理性ではないがゆえに合理性によって否定することが難しいって書いてますよね?
しっかり読んでから「根拠がない」みたいなこと言ってくれません?
二度手間だるいんですけど(笑)
>>40
おぉおぉ、詭弁製造機にでもなったつもりですかね?先刻の私の文章をよく見ていればまず出ない発言ばかりであり、当たり前のような補足になってしまうのが残念でたまらないです。まずこの部分。
>なぜ純粋な感性は否定のしようがないかについて、感性とは理性ではないがゆえに合理性によって否定することが難しいって書いてますよね?
理性ではなかったとしても、理性ではないものの是非をメリットデメリットという客観的事実に基づき否定することが出来ると私は示しました。それなのにも関わらず貴方は否定出来ないと言っています。もう一度問いましょう。何故理性ではないものから生じる思想に付属している客観的事実を使用して否定することが出来ないのでしょうか。もう一度言いますね。「堂々巡りです」。
はい次。
>互いの感性の中にメリットやデメリットを見いだし、それらを滔々と説いたところで、例えばAさんがパンよりもご飯を好きだと思っている感性を非合理的だとみなせるケースはあるにしても、誤りであると断定できることはないわけです。
私の文章をどれほど荒く咀嚼すればこのような駄文が出来上がるのか…甚だ頭が痛いです。再三言いますが、非合理的だという客観的事実は各々に内在する正当性の基準に触れる場合があります。そのような基準を持つ人からしてみれば「非合理的である」という事実は十分に不当であると断定することが出来ます。
>感性の対立における正当性の基準というのは人それぞれであり、だからこそ前レスで書いたように好きだ嫌いだ論争に正当性を付与することはできないわけですし、またそれが不毛であることの理由だし低レベルだとみなす根拠です。
何故人それぞれだからといって正当性を付与することが出来ないのでしょうか。もしかして論争における正当性は普遍的でないといけないと勘違いしてはいませんか。各々の中に正当性の尺度が存在するのであればその時点で論争における基準は存在するという証明になりますし、寧ろ正当性をはかれるという証明にもなるじゃないですか。貴方、自滅していますよ。
>正当性が人それぞれなら着地点も人それぞれだし、人それぞれのことをどれだけ言い争っても人それぞれの帰着しか見いだせない議論なんてする意味あるんですか?
だからこそ複数の基準に基づく結論を見出し、様々な場合のメリットデメリットを打ち出していくことに意義があるのではないですか。少なくとも各々の中におけるどちらに正当性が存在するのかという結論は出ますね。みんな違ってみんないい、だからこそ各々のいい所を見出し、自身の中で消化することに意義があるのですよ。
>パンよりご飯が好きだ!と思っているAさんに対して、パンが好きなBさんは一生懸命パンのメリットを説きました。努力のかいありAさんはパンのメリットを認めました。しかし、パンのメリットを認めたからといってご飯が好きだという感性が否定されることはない。メリットがあろうがなかろうが好きなものは好きなのだから。
当たり前かのように否定されていないことにしないでくださいw客観的事実に基づいて感性における合理性の否定は出来ていますから(n回目)w
それとメリットがあろうがなかろうが好きだということは、客観的事実においての正当性には関与しませんよ。何度も言いますが引き続き好きであろうと、純粋な感性に内在している客観的事実を否定することで実際に意義が生じますから(意義の具体例は先刻の投稿で説明済)。
>その感性が否定されない以上Aさんには何の批点もないし、Bさんもただただパンのメリットを認めさせることができただけに過ぎず、論争に於いてなんの加点要素もない。間違ってはいけないのは、この二人はメリットの有無について対立しているのではなく、どちらが好きかという感性の部分で対立しているわけであり、いくらメリットの部分で認めさせたからといってなんのプラスにもならないということ。
これは私の2つの質問のうちの答えられていないもうひとつの方ですね。もう一度問いましょう。貴方にとってのどちらが好きかという感性の対立とは何を指すのでしょうか。これも言いましたが、感性から派生した様々な価値観でしか対立は有り得ないと思われますが?まだ説明出来ていないので貴方の論は正当性が欠けていますねぇwwwwww抽象的なんですよ、ち ゅ う し ょ う て き。
もう一度思い返してみてくださいね、感性の衝突によって論われる内容とは一体どのようなものなのでしょうか。それはお互いのメリットを唱えてよりどちらにメリットが存在するかを説明するようなものなのではないのでしょうか?それはつまり各々の中に好き嫌いという判断をするための基準が存在するわけですよね?その基準という琴線に触れさせるための議論なのではないのですか?それならばメリットデメリットではかられる正当性が好き嫌いの感性の琴線だとしてもおかしくはないわけですよ。きちんと区分化してくださいよ、先輩さん(笑)
m
好き嫌いでは論争は出来ない
t
好き嫌いでも論争が出来る
m
否定のしようがない。感性まで否定出来ない。
t
感性を合理で否定出来る場合もある。(例:客観視)
m
合理で否定とは基本的に出来ない。純粋な感性に理由があれば合理を説いても否定出来ない。感性は理性ではない。否定するのは難しい。健全も不健全もない。
t
デメリットを説くことで悪だと思わせられる(否定出来る)感性の否定を感性を変えると誤認しているようだ。
デカルトは「能力の範囲外について負い目を感じるべきではない」とした。負い目という感性を否定した例である。
感性は否定出来ないの根拠が明確ではないA
感性の健全性の基準は種類がある。他人の感性を自分の中で保持も出来る。
m
否定とは理由を述べる必要がある。純粋な感性には否定のしようがない。真実性正当性の付与が必要である。合理性は説けるが真実性正当性は担保されないし感性に誤りがある事にならない。
tの理では正当性を付けることは可能だろう。しかしこれは合理の追求であり、感性による対立とは違うものだ。
メリットで不毛ではないとしているがその点を以って判断しているわけではない。感性の否定は出来ないから不毛
t
メリットでは客観的事実は有効。見ない振りをするな。正当性の基準は人それぞれであり、より強いメリットを提示する事で基準を変えることも出来る。基準を作るのは容易であり、共通認識が出来れば正当性の尺度が出来る。感性の対立にもなる。
感性に対して否定は出来ないの根拠は?
純粋な好き嫌いという感性による対立とは?→それら(感性)は名詞であり、そこから生じた主張が対立するはず。メリット云々を基準にした衝突は純粋な感性による衝突と言える。
mは抽象的に述べているだけ。論理的ではない。
m
好き嫌いは純粋な感性であり否定しようがない、だから不毛。以下前述した意見の繰り返し。
はいまとめ。
そもそも好き嫌いという感性が理性によるものではないと自明の理のように仰っていますが、それも怪しいものですがね(笑)もう触れば触るほどどんどんボロが出てくるじゃないですか〜ww降伏しておいたらどうですか?wwこれ以上恥をかくまえにw
まあ所見ですが、m(ミルフィーユ)は例示ばかりで具体性がペラな気がしますね。最後のまとめ?も同じ事を繰り返しているばかりで新しい反論ではない。t(タイラク)の反論に対し、具体的な反論をせず、違うんだーそんな事言ってなーいと言っているだけのように見える。mの負け。
長文だからみんな具体的には読まないんじゃないかなあ。だからどこが恥なのか分かってないんじゃないかなあ。恥か否かに関わらず、信者はミルフィーユ万歳して誤魔化そうとするんじゃないかなあ。mはそんな信者に慰められつつフェードアウトするんじゃないかなあ。
私情ではなく合理だし天使の勝ちとするならお前がジャッジすればいいんじゃないですかあー
スレ主はYoutubeコメント欄で喧嘩するときも今のこのスレと同じような要領・手法で喧嘩してた?
それとも、郷に入っては郷に従う感じで、この掲示板をざっと見渡して会話のスタイルを掲示板寄りに調整してる?
Youtubeコメント欄で巻き起こる喧嘩ってめちゃくちゃクオリティ低いイメージがあるのだけれど、実際どうなの
今までの自分の経験とこの掲示板での喧嘩を比較する感じでYoutubeでの喧嘩がどんなものなのか紹介してもらえるとアリガタイ
>>41
「メリット・デメリットという客観的事実に基づき否定するこはできると示しました」と自信満々で書いてますけど、それについては反論済みです。
まずここで私が用いた「否定」という意味は、単に「それは違うよ」と言うことではなく、正確な理由を述べることにより客観的真実として提示すること、です。
翻って、「パンよりもご飯が好きだ」という感性の持ち主に対して、いくらパンのメリットを説き相手に理解させることができたとしても、相手がご飯を好きだと思う気持ちを誤りだと判断することはできない。
誤りという判断が下せないということは、逆を言えば正しいという判断が下せないのと同義であり、結局はパンよりもご飯が好きだという感性に対して何らの否定もできていないということになります。
あなたがこれ以上メリット・デメリットにより感性を否定することができるということを強弁するのなら実際にやってみてください。
私はパンよりご飯が好きです。
この感性をメリット・デメリットという客観的事実に基づき否定してみてください。
私に対して「なぜ感性は否定出来ないのだ?」と同じ質問を繰り返されてもこちらの答えは変わりませんし、堂々巡りが嫌なのならばあなた自身がここではっきりと私の感性を否定してみせれば解決するのではないでしょうか。
また、好きだ嫌いだ論争における正当性は”人それぞれ”です。
この点については共通認識が取れていると思いますが、問題は、ある論題における正当性が人それぞれである状況において、その論題については正当性を付与することができないということです。
この正当性が付与できないというのは、普遍的な正当性が付与できないということを意味します。
あなたは「論争における正当性は普遍的でなければいけないと勘違いしていませんか」と言いますが、論争における正当性が普遍的でなければその論争は不毛であるというのが私の考えです。
確かに論争おいて正当性というのは普遍的である必要はない。
しかし正当性が普遍的でなく人それぞれならば、それは何を言っても正当であるという状況が作り出されます。
何を言っても正当ならば理屈による屈服は実現し得ず、結局は価値観の押しつけという不毛砂漠に陥るのが関の山なわけであり、不毛な喧嘩を避けたいのならば論題に対して普遍的な正当性が付与できることが必要条件であると考えられます。
次に「各々のいいところを見いだし自身の中で消化することに意義があるのですよ」なんて懐の深いことを述べていますが、ここでそういった個人的な感想を漏らすことの意味はなんですか?
私は好きだ嫌いだ論争のような感性における争いは、正誤がないという不毛さを伴うが故に低レベルだということを述べています。
あなたはそれについて反論をしたい立場なんですよね?
無論、感性の争いの中でも良い発言もあれば悪い発言もあり、自分によって有益となる部分もないではないでしょうが、しかしだからといってその論争に正誤が決定するわけでく依然として不毛なままである。
各々のいいところを見いだしてなんていう発言はそれはもう高尚な意見には違いありませんが(笑)、結局はなにも収拾つけられないじゃないですか。
不毛さを否定できていないじゃないですか。
つまり、何の反論にもなっていないんですよ。
ですから、そんな個人的な感想を漏らす意味は何なのかが非常に疑問なのです。ばくわら
最後に、感性における合理性の否定ってなんですか?
パンよりもご飯が好きなAさんにBさんはパンのメリットを認めさせることができました。
でもそのパンのメリットを認めることでAさんのご飯が好きだという気持ちは否定されるんですか?
否定されませんよね。
理屈と感性は別物であり、理屈によってパンのメリットを認めさせることができたとしても、ご飯が好きだという感性が否定されていることにはならない。
>>53
場合によるでしょ。
Aさんの容姿が優れていると思えるのはその人の感性であるといえるし、
Bさんのテストの成績が優れていると思えるのはその人の理性であるとも言える。
ってかこんな引用しながらの喧嘩なんてキャスフィじゃほとんどやらないでしょ。キャスフィ寄りに調整する動機ないと思うけど。
あとm君をバッサリ切るならパンとご飯の例示はおかしいとする事が出来る。ようつべはアーティストごとに誰々が好きと個別具体的にしているのだから、食べ物で分けるならもっと個別具体的にしないと例示として不適格。
例えば音楽は最上位の概念として食べ物で対比できるし、パンやご飯と対比するならロックやポップスとするべき。アーティスト名と対比するならコシヒカリやササニシキで例示するべき。アーティスト名とパンご飯では階層からして違う。こうすれば根本からズレているとして切捨て可能だろ。
>55
同じことの繰り返し。見る価値なし。
>>42
それ最初から違くね?
m:好き嫌いで論争はできない
ってなってるけど、本当に論争はできないという立場ならそもそも好き嫌い論争は低レベルだなんてことも言えないんじゃない?
だって論争はできないって言ってるのに、その論争は低レベルだって言えば、いえ論争できてるやないかい!!っていう矛盾が生じるよね
好き嫌いでの論争と、前記論争は低レベルか否かの論争は別の話ですよ
>私がぱっと思い浮かべたのは、好きだー嫌いだーのような低レベルな応酬なんですけど、もしかしてそういうことをしていたわけではないですよね?
>ご飯が好きであるという感性を合理性をもって否定することができれば、と言っているけれど私としてはそれは基本的にできないという立場なんだよね
まさか「好き嫌いでの論争はできない」とは一字一句同じ事は言ってないなんて言うつもりなんじゃ・・・
内容として言ってるのと同義なのであって、一字一句同じ事を言ってないなんてそれこそ低レベルですよ。天使も落ちぶれたもんだ。
>>66
2つ目の引用部分は好き嫌い論争ができないっていうことじゃなくて、ご飯が好きという感性は合理性で否定できないっていうことを言われていますよね…?
りさん間違えてますよ…
否定出来ない=否定出来るか出来ないかの論争が出来ない=好き嫌い論争が出来ない。
もーいーですかー?低レベル過ぎるんですけどー
草草言ってりゃ優位になると思ってんのかねこの粘着。天使の負けは変わらない。根暗に擁護された天使がより惨め。はあよわ
うそつきミルフィーユが不毛と主張している好き嫌いという点での対立がどちらか一方を正しいとする結論に落ち着くことはないと思われます。なぜなら、感性は十人十色であるからです。人によって当然に異なるものを正否にわけることはできません。なので
A「俺は好き」
B「俺は嫌い」
これ以上の進展は望めないわけですね。
それに対して、タイラクは「客観的視点から否定することはできる」と主張していますが、それはもはやうそつきミルフィーユが問題にしている対立の範疇から逸脱しています。それは上述したやりとりのような純粋な感性の対立であるので、客観的な視点から否定するのは新たな論点が形成されていると思われます。例えば、「そうあるべきか否か」や「どちらの方が優れているのか」、「どちらのほうがメリットがあるのか」といった論点で感性を否定するのは、感性の成り立ちに客観的事実が関わっている場合に限られるわけですが、それゆえに純粋な感性の対立ではないのです。
>タイラク
>感性の衝突によって論われる内容とは一体どのようなものなのでしょうか。それはお互いのメリットを唱えてよりどちらにメリットが存在するかを説明するようなものなのではないのでしょうか?
それはアーティストやタレントなどの「要素」への“好きか嫌いか”の評価論争ではなく、もはや個々の要素が持つ性質などから何らかの基準で分化した「集合」への“好みかそうでないか”の評価論争ではないのか?
天使の主張
・純粋に好き嫌いという感性に対しては否定のしようがない、だから不毛な争いになり、天使はそういう論争をレベルが低いとみなしている(>>18の要約)
タイラクの主張
・感性を合理性をもって否定することが出来れば、相手の感性の健全性を否定したも同然である。客観視した場合にどちらの感性の方がより優れているかと比べることは容易い(>>20の要約)
>>26天使
>「ご飯がすきだ」という理由がそういう合理的な理性に基づいたものではなく、先程述べたように「純粋な感性」に理由があるのであればいくら合理性を説いても否定できないじゃん
天使は、(ご飯とパンの例で)「純粋な感性」に基づいた好き嫌いは、合理性を根拠に否定できないという立場。つまり「不合理な好き」も否定できない。
>>27タイラク
>人殺しが好きという感性が生み出すデメリットを説くことにより第三者から見て「悪だ」と思わせることが出来ます。
(人殺しの例で)感性が生み出すデメリットを根拠に客観的な悪を主張できる。つまり不合理であること(デメリット)を根拠に感性を否定できる。
また、デカルトの例により、
>能力の範囲外で起こった事象に対して負い目を感じる人種の「感性」の健全性を理性的に否定したこととなります。
デカルトは感性を合理性をもって否定してることを例示。
さらにパンとご飯の例では、どちらが日本の利益に貢献しているかの観点をひとつの例として、
>このような様々な判断基準を持つ第三者の薄っぺらい共感を得ることで欲求を満たすことも出来ます。
とし、さらに相手の感性のメリットを理解することで
>合理的によりメリットがある方を勧めることが出来る
と好き嫌い論争の意義も主張。
タイラクはこの>>27で最も多くを語っている。
それに対する>>34天使の反論もポイント
>説得により合理的なのはパンだということをいくら認めさせることができたとしても、「ご飯が好き」という感性に誤りがあることにはならないわけですから、どちらか一方に真実性や正当性が傾くことはないのは明白でしょう。
感性の合理性は認めさせることができるが、感性に誤りがあることにはならないと主張。天使は一貫して感性の「合理・不合理」の判断は可能だが感性の誤りは証明できない(純粋な感性において合理性と正しさは別)とする。ちなみに「明白でしょう」と言っているが、天使の立場を是認すれば明白でも、客観的には明白にはなっていない。
そして感性に正当性を付与するならば、
>あなたが書いているように「どちらが国の利益になるのか」という論点を据え、利益という合理性で推し量れる点を創出することで初めて可能
そしてそういう論点を据えたら
>この論争はどちらに利益があるのかという合理性の追求になるわけであり、私が低レベルとみなす「純粋な好き嫌いという感性による対立」とは一線を画するものになります。
>>35タイラク
>正当性がどこではかられるかも人それぞれでしょう。
としたうえで、
>メリットを齎すものが「正しい」という思想を持っていた場合、よりメリットを齎す方に正しさを感じるのは必然です。
よりメリットをもたらす感性が正しいことは必然とする。が、上の天使の「明白でしょう」が明白でないことと同様、この「必然です」も、それを必然とするような思想を持っていた場合の話であるから一般的な必然性はない。
この部分は天使>>34
>メリット云々は考慮せず、あくまで感性の否定はできないから不毛だということを言っています。
ここですれ違いが発生している。天使はメリットのある感性がそれを根拠に正当だとは言えないという立場。タイラクはメリットを合理性としてそれを根拠に感性に正当性を付与できるという立場。
タイラク>>35の続き
>共通認識さえ出来ればメリットデメリットの多寡を正当性の尺度にすることは出来ますよね。そしてその時点で純粋な感性による客観的事実の対立になっていますね。
当然だがタイラクは上記の立場に基づいて主張を展開している。しかしそれは天使の立場ではないから天使は受け入れられず、タイラクの言うとおりの「堂々巡り」に陥っている。
>>40天使は、長文の大半はおおむね従来の主張をまとめたもの。ただ、
>あなたも言っているように正当性がどこではかられるかは人それぞれです。
とし、
>正当性が人それぞれなら着地点も人それぞれだし、人それぞれのことをどれだけ言い争っても人それぞれの帰着しか見いだせない議論
であるから不毛としている。
>>41タイラク
>理性ではないものの是非をメリットデメリットという客観的事実に基づき否定することが出来ると私は示しました。
タイラクは>>35で「共通認識さえ出来れば」として同様のことを言っているが天使は「人それぞれ」、つまり共通認識を前提としていない。そしてこの「人それぞれ」はタイラクがやはり>>35で「正当性がどこではかられるかは人それぞれ」と自分で持ち出した主張だから、タイラクは自縄自縛に陥っている。
>非合理的だという客観的事実は各々に内在する正当性の基準に触れる場合があります。そのような基準を持つ人からしてみれば「非合理的である」という事実は十分に不当であると断定することが出来ます。
堂々巡りになっている原因は、タイラクが合理性が感性の正当性の根拠になるという立場であるのに対し、天使は合理性は理性であるから感性の正当性の根拠にならない、という立場ですれ違っているところにある。
その中で、各々に内在する正当性の基準が「人それぞれ」であることは双方合意の事項だが、上の「「非合理的である」という事実は十分に不当であると断定することが出来ます。」も、タイラクの立場では正論でも天使の立場では感性を不当と断定できない。
どっちが正論かではなく、立脚点が異なったまま。
>各々の中に正当性の尺度が存在するのであればその時点で論争における基準は存在するという証明になりますし、寧ろ正当性をはかれるという証明にもなるじゃないですか。貴方、自滅していますよ。
「各々の尺度」が「人それぞれ」という共通認識の下では、論争における基準は人それぞれ異なったものが存在するから、正当性をはかれる証明になっていない。
ここまできたら私の判定が天使の勝ちだとわかると思います。
改行が多すぎるそうで1レスにまとめられなかったので、続きます。
(続き)
総括すると、
天使は「合理性は感性の正しさの根拠にならない」であり、タイラクは「根拠になる」という立場ですれ違っている。で、ならないのかなるのかという点では、お互いに論証できておらず、それぞれの前提で主張を繰り返すから堂々巡りになっている。
天使はそもそも、感性の正しさを評価する根拠として合理性(理性)を排除できる根拠を示すことができていない。
タイラクのほうは、一見理詰めに見えるものの、
>どちらの感性の方がメリットを齎すのかという論題においては客観的事実は有効
→今回はそのような論題ではない
>メリットを齎すものが「正しい」という思想を持っていた場合
→その思想を天使は持っていない
>共通認識さえ出来ればメリットデメリットの多寡を正当性の尺度にすることは出来ますよね。
→この論争にそんな共通認識は存在しない
>そのような基準を持つ人からしてみれば
→天使はそのような基準を持っていない
一見論理的にあるように見えても、自分の主張が正しくなるような条件設定下で自分が正しいことしか主張できていないので、天使と同様に客観的な根拠を示していない。
タイラクのポイントとしてはデカルトの部分。デカルトは感性を合理的でないから否定しているといった部分だが、「デカルトが言った」という以上の話じゃない。ただ著名な哲学者の言だからそれなりに重みはある。天使はデカルトを敵に回したくなかったのか、この部分への言及を避けているからタイラクのポイントとなり得る部分。
天使のポイントは、タイラクの「基準は人それぞれ」を共通認識にした部分。評価の基準が異なれば結論も異なるわけで、異なる多数の結論が生まれることを「不毛」の根拠にした。
全体的に、お互いに自分の設定した前提条件下の主張しかできてなく、議論が噛み合っていない。ただ判断基準の多様性というタイラクの出したものを天使が自分の論拠に活用したことで、タイラクは攻めの幅を狭めてしまった。
よって天使の優勢勝ち。